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読書日記1047

フリードリヒ・フォン・シラー『改装版 人間の美的教育について』法政大学出版局 (2017)

■一般財団法人 法政大学出版局

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日記

『啓蒙の弁証法』の読解が難しくて進んでいないが、知性と合理性への渇望がたどり着いた先がナチスという、啓蒙の逆接というものについて思うのは、近年研究が進んでいる「感情史」や「ケア」について触れたときに「男性的な知性」の限界というものがあるのではないかというものであった。

合理性というものをいくら突き詰めても、量子の軌道が予測不可能と同じように、究極的には合理性も不確実の範疇にあるのではないか。

だからといって感情、つまり定性的なものが知性を淘汰するとは到底思えないが、AIがどの方向へ進むにせよ、人間である以上、その原始から存在する感情を軽視することは人間の傲慢であると思わざるを得ない。

・・・

ベンヤミンの論考は恐ろしく難しいが、芸術が良くも悪くも社会に大きな影響力を持っていることは感じていたはずである。

「美化」という言葉は度々政治の場で飛び交う言葉であるが、芸術が政治に吸収されることによって何が起きるのかということをベンヤミンは先取りして研究していたように感じた。

ドイツはゲーテ、シラーという偉大な文学者を排出しながらもなぜ全体主義に陥ってしまったのか。

それを解く鍵として『啓蒙の弁証法』があると思うのだが、これも難しくなかなか進まない。

大江健三郎が書いたように、小説は自由であるべきである。映画も、アートもしかりである。

しかし、どうだろうか。

「小説はコスパが悪い」

「哲学(文学)は役に立たない」

失われた三十年の根源はなにか。

日本人は何を失い、何を得たのか。

昨日、共産党が街頭演説で教育の無償化を訴えていた。

教育の無償化に対して異論はない。

しかし教育のシステムには異論がある。

書き始めたらキリがない。しかし書かねばならない。

文学は哲学からサイエンスまで、全ての領域で問いを投げかけなければならない。

とりあえず今日はデューイとシラーを読んだがもっと読みたい本が山積みである。

時間が足りない。お金も減ってきた。厳しい戦いである。

この葛藤をどう表現すればいいのか。難しい。

それを問うのが限界であると思いながらも、なにかできることはないかと模索する日々である。

公開日2023/6/5

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