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読書日記1049

   鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』みすず書房 (2023)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

『アディクションと金融資本主義の精神』の冒頭にヘーゲル『法哲学』からの言葉が引用されている。

“普通の人間は、恣意的に行動することが許されている時に、自分が自由だと信じる。しかし、他ならぬこの恣意のうちにこそ、彼が自由ではないことが存在するのだ。” (『アディクションと金融資本主義の精神』)

自分は去年からしばしば自由について考えてきた。

何回も何回もこのブログで書いているが、再度強調したい。

ひとつは「アイヒマン実験(ミルグラム実験)」で人間の判断力が著しく「不自由」となる可能性について示されたこと。

もうひとつは「リベット実験」によって自由意志にはわずかな時間しか残されていないばかりか、そもそも因果律(原因なくしては何も生じない)から完全に独立した「自由意志」の不可解性について。

前者は人間の意志の弱さを露呈させ、後者は主体性というものが存在の連鎖(=歴史の連続性)によって否応なく決定されてしまうという、個人の非力さを浮き彫りにさせた。

参考文献:小坂井敏晶『責任という虚構』

・・・

だからといって「ゼロか百か」といった誤謬を受け入れるのは愚かである。

グラデーションで考えると、自由というものも色合い、つまり強弱で考える必要がある。

グラデーションで考えなければ「逮捕されて拘束された状態」も「経済的にも身体的にも精神的にも余裕がある状態」も「自由意志問題」の次元においては同じものとして扱われるからである。

前者は「弱い自由」、後者は「強い自由」と考えるのが妥当であろう。

これを踏まえて先程のヘーゲルの言葉について考える。

自由というものは言葉が単純すぎるために定義が難しい。

経済的自由、精神的な自由(洗脳されていない、追いつめられていない等)、身体的な自由(ケガがない等)など挙げればキリがない。

さらに高次の次元になると社会的なルールであったり細かいしきたり等、うんざりするほど行動を制限するものが世界には存在する。

そういう意味でヘーゲルは恣意のなかに自由ではないものがあると言っていると解釈できる。

・・・

このことを踏まえて自分は「自由市場」と「自由競争」について思いをめぐらせた。

例えばある会社が倒産したとして、「それは市場の原理によって淘汰されたのだから仕方がない」と評価を与えられたとする。

この問題を先程の自由意志問題と接続させると、巨視的に見ればたしかに企業の努力不足の面もあるのは当然であるが、その他に見逃された要因がどれだけあるのか、そもそもどれだけの「原因と結果」を人間は感知できるのか、考えてしまう。

自分はまだ青いからだろうが、「自由市場」という言葉に疑いを持っている。

「自由競争」も否定的に見ている。

本書では貨幣について、「物々交換から貨幣が作られ、そのあとに信用システムが発展した」という定説が全くの嘘であることを『負債論』で論じたデヴィット・グレーバーに関する論争について考察されている。

池田晶子的に言えば、「自由」がそもそもなんであるか、実はよく分かっていないにもかかわらず「自由競争」などという言葉がまかり通るのである。

・・・

今日は『崩壊を加速させよ』を再び読み直し始めた。

宮台氏の本からいろいろなことを引き出せるように思われた。

つづく

公開日2023/6/8

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