■株式会社河出書房新社
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つづきをよみおえた。
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感想
250項から最後までの内容を軽くまとめ、最後に『ホモ・デウス』の全体的な内容を踏まえて思ったことを書いていきたい。
また、本書を手に取った読者にとって気になることはやはり、AIやテクノロジーによってどのようなメリットがあるのか、どのようなデメリットがあるのか、ではないだろうか。
自分はAiと政治的な結び付きについて知見を得たいと思ったので本書を最後まで読み通した。
なのでこの点についてはしっかりと記憶に残るように書いていきたい。
あまり喜べない未来像も描かれたが、ハラリ氏が言うように未来は不確実であり予測は不可能である。
・・・
本書に書かれているように、自由資本主義は一度、共産主義の脅威に晒されてた。
今では経済成長があらゆる社会問題を解決できるという考えに疑いを持つひとは少ないが、全共闘世代が若い頃(1960年代から1970年代)、彼らは自由競争による経済成長から生まれる格差、不平等などに関して、また、資本家による搾取などと強い嫌悪を抱いていた。
共産主義はユートピアとすら思われていた時代があった。
しかし結果的に資本主義が勝利した。
この原因について、ハラリ氏は作り話を引用した。
計画経済のなかではパン屋が常に行列ができるのだという。この問題を解消すべく、ソ連の政治家がロンドンへと視察に行った。
「なぜロンドンではパン屋に行列が生まれないのですか?」
政治家は真剣そのものである。
「管理者からお話伺いたいのですが」
「そんなひとはいませんよ」
市場の原理は明らかに計画経済よりも効率が良い。
それはハラリ氏がいうには、資本主義はシステム的には「分散処理」であり共産主義は「単一処理」であるからだそうだ。
計画経済がうまく機能しなかったのは、つまりパン屋に行列ができてしまうのはそもそもソ連の政治家たちが情報を処理できていないからであった。
抽象的な話になるが、人間は「情報を処理するアルゴリズム」であると考えるとこの例をうまく咀嚼することができる。
具体的に書けば、今日の日本では、どこのスーパーで何が安く売られているか(=情報)は個人個人が経験から理解している。
だから各々の好みに合わせてそれぞれが勝手に好きなお店で買い物をする。(=分散処理)
行列があれば、少し離れたスーパーに行けばすぐ帰る。
どの地域にどの程度お店を置くべきか。そんなことは市場の原理に任せれば勝手に最適化されるが計画経済は余計な情報を処理しなければならない。
だかしかし、である。
これからもテクノロジーが尋常でないスピードで加速して発達していく。
ハラリ氏がいうには、資本主義社会でさえも情報が多すぎてもう処理しきれない時が来るというのである。
“今やテクノロジーは急速に進歩しており、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。(・・・)政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない。” P294
否。
既にその兆候はある。
今日のマイナンバー問題はすでに分散処理システムですら機能していない証である。
アメリカのシリコンバレーが何を考えているか定かではないが、本書を読むと本気で「ホモ・デウス」を目指しているのかもしれないと思えてくる。
本書ではテクノロジーによって知能と意識が分離する未来が描かれている。
本書によれば、受注から配送、配達を機械だけでやってのけてみせようと企てる企業(Googleなど)がシリコンバレーには存在している。
自動運転はそのうち精度が上がるので、問題は物理的な動作を必要とする、トラックで荷おろしや配達をするロボットがいつ出てくるかである。そう遠くはないが、もしかすれば実現されるかもしれない。
そしてあらゆる仕事は機械に置きかわる。
仕事は普通、意識を重視しない。
病院でさえも、アルゴリズムによって完璧に診断可能な未来像が描かれた。
薬剤師も、処方箋を挿入すれば薬が出てくるという、自動販売機のような機械に置きかわるかもしれない。
知識と意識が分離し、人間は見事に疎外される未来が描かれた。
果たして人間に価値はあるのか。
ハラリ氏はデータ至上主義(世界の情報を全てデータとして認識し、すべてのモノをインターネットにするという思想=機械の全知全能化)によって、人間の活動が全てデータに還元されていくディストピアを語る。
“私たちは自分自身やデータ処理システムに、自分にはまだ価値があることを証明しなければならない。そして価値は、経験することにあるのではなく、その経験を自由に流れるデータに変えることにある。” P313
考えられるディストピアは主に二つある。
一部の超富裕層だけがサイボーグ化(知能や身体能力を改造)して世界を牛耳るパターンと、完全に機械が人間を打ち負かすパターンである。
このような未来像を描き、ハラリ氏は読者に問いかける。
「知能と意識のどちらに価値があるのか?」
・・・
実際のところ、この予測は、人間には自由意志がなく、ただのアルゴリズムに従うだけの生き物であるという前提で組み立てられている。
そんなことがありうるのだろうか。
アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』を軽く立ち読みしてみたが、人間がただのアルゴリズムであると考えるのは早計だ、という主旨のことが書かれていた。
「自由意志はあるのか?」という問いかけは、実は自由意志があるから生まれる問いかけなのではないのだろうか?
「なぜひとを殺してはいけないのか?」という問いかけが、実は殺してはいけないと予め分かっているからだ、と池田晶子が答えたように。
アランが言った「精神とは肉体を拒む何者か」についてはどうなのだろうか。
正直なところ、まだまだ未解明なことは多いのではないだろうか。
突っ込みどころは多い。それは当たり前で、ハラリ氏は未来を予測することは不可能と予め言っている。ビッグデータの時代とはいえ、もはや処理しきれない情報を抱えているのが現状だからだ。
上巻でハラリ氏は「飢饉、疫病、戦争」が減少したと書いているが、ウクライナ戦争が勃発し新型コロナウイルスによるパンデミックも起きた。
いきなり的はずれである。
天才でさえも、これからどうなるかが分かるほど賢くはない。
専門家といえど限界があり、だからこそ一人一人が考えて日々行動する意味がある、ということの余地はまだある。
公開日2023/7/14