閉じる

読書日記1083

       池田晶子『死とは何か:さて死んだのは誰なのか』講談社(2009)

■株式会社講談社

公式HP:https://www.kodansha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/KODANSHA_JP?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日記

池田晶子の「言葉は言葉以外の目的を持たない」という言葉についてしばらく考えた。

つづいて、言葉としてしか存在しないものについても彼女の本を読みながら考えさせられた。

それは物質に還元できない指示物である。

死。国。大学。

これらの言葉はどこに在るか。

死は存在しない。

存在するのであれば物資に還元されなければならないからである。

「いや、事実としてあるじゃないか」

概念としてはある。しかし概念も事実も言葉なしに成立しない。

従って、言葉でしか存在し得ない。そして言葉で在るだけでしかない「死」は物質には還元され得ない。よって死は存在しない。

木であれば、街を歩けば存在していることが分かる。

水も生きていれば必ずどこかでその存在を認識することができる。

これらは物質であり目に見えるからだ。

しかし死は見えない。

死が見えるのであれば、死という物質はどのような元素で構成されているか。

まさか、炭素というのだろうか。

国も大学も同じである。

国という物質はどの元素を持つか。大学は。

物質としては「死」は在り得ないということが分かれば、「脳死」という概念は臓器を提供するために無理矢理作られた虚構であることが見えてくる。

つまり言葉としてしか存在しないものは字義通り「目に見えない」なにか、である。

そしてそれは虚構だとか概念だとかに集約される。

そうなると小説と現実のどちらも似たようなものだと思えてくる。

これによって哲学上の命題、今自分が見ているものは全て夢か、といった問いが生まれる。

・・・

池田晶子も二項対立を使いながら思考していることが伝わってくる。

彼女は、命の長さが無限になれば生命に価値はあるのか、と問う。

有限性のなかにこそ価値が宿り、無限のなかに価値はおそらくない。

飲み水が無限になればそれに越したことはないが、有限のゆえに価値が生まれる。

希少性もやはり有限性のなかにこそ宿りうる。

しかし「生」に関しては難しい。

「死」がどういうものか生きている者には分からないからだ。

ああ悲しきかな。

二項対立的思考の限界は経験の有限性によって覆される。

公開日2023/7/18

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free