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+トーマス・ベルンハルト『消去』
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日記
『消去』に時間をかけ、230項まで読み進んだ。
230ページあたりでようやく主人公の年齢が明かされるという変わった小説だ。
「自由とは何か」ということを意識させられた。
つまるところ、それは気をとられないということではないだろうか。
文字通り、気を「取られる」ということは、瞬間的には肉体しかない状態を意味する。
注意散漫。
最悪の場合、事故を招きかねない。
だから気を保持すること、気を維持すること、気を守ることは自由の条件であると言える。
夏は誘惑が多い。
夏のせいだといった歌詞や、夏だから何やってもいいんじゃねといった歌まである。
夏は気を取られやすい時期と言える。
夏はなんでもできるという思い込みは、実は夏だから不自由になるという逆説として返ってくる気がしてならない。
科学やAiが進歩しても人間は大して変わらないという思いは今でもあまり変わらない。
科学的な判断は可能であるが、科学的な生き方はできない。
科学的な思考は基本的に定量化された基準しか持ち合わせていないので、定性的な事柄が原因の大半を占めるであろう物事に対して専門家でさえも的外れなコメントしかできていないことがある。
定性的な事を科学的に、つまり定量化して語ることは、それは定量化されたのだから科学的思考となり、定性的なことの範疇外だ。
定性的なことを科学的に語るのは背理である。
定性的なことは外から(=科学的に)基準を作るのは不可能であり、定性的なことはやはり内側からしか語り得ない。
その例をトーマス・ベルンハルトは私たちに教えてくれる。
公開日2023/7/27