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読書日記1097

    スーザン・A・ハンデルマン『救済の解釈学ーベンヤミン、ショーレム、レヴィナス』法政大学出版局 (2005)

■一般財団法人 法政大学出版局

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日記

このブログでは年に数回「真善美」がどうのこうという、よく分からないコピペされたと思われるコメントが書かれる。

結論から書くと、哲学は厳密には宗教とは違うということを自分は三太夫さんに伝えたい。

ジル・ドゥルーズでさえも、哲学は「概念の創造」とは言いながらも、加えて「あらゆる学問への監視者」だ、といったニュアンスのことを書いている。

池田晶子は「存在の謎を考える」ことを一応のところ「哲学」として位置付けている。または、「考えることを考える」と述べている。

たしかに哲学は「なぜ道徳的でなければならないのか」といった問題や、「いかにして生きるべきか」といった問いを取り扱う。しかし、これは哲学の営みの氷山の一角であって、哲学は性質からして取り扱う問題は無限にある。

池田晶子によれば、誰かが考えたことの体系というものが「思想」と呼ばれるわけであるが、これが宗教として捉えられるのは否定できない。

思想は宗教でもあり得るが、哲学は宗教ではあり得ない。

三太夫さんがこのあたりを勘違いしている可能性があるのでここだけは強調したほうがいいかもしれない。

哲学は池田晶子によれば「考えることを考える」営みであって、宗教はむしろ「考えることを放棄」し、教条主義的にただ「信じる」きらいがある。

ここが決定的な違いである。

・・・

ヴァルター・ベンヤミンの「純粋言語」というものは読んでいて深く面白い。

言語の違いで世界の見えかたが変わるというのは「虹」に関してはよく知られている。

しかし、言語が認識を作るのかどうかまではハッキリしない。

だからといって言語なしに認識が成立するかどうかも分からない。

ベンヤミンはこの問題を翻訳と繋げた。

「純粋言語」というものはおよそ不可能な、ある意味ユートピアのようなものである。

ただ、そういうものを想定することによって何が言えるか、と問うことはできる。

三太夫さんには是非「真善美」というものが東洋及び西洋においてどこまで一致していて、どの程度双方は認識がズレているのかを「探求」してもらいたい。

公開日2023/8/3

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