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読書日記1133

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』堀之内出版 (2018)

■株式会社堀之内出版

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日記

『資本主義リアリズム』を読んでいて感じるのは、マーク・フィッシャーがとてつもなく悲観主義者だったのではないか、ということである。しかしその思いのすべては汲み取れないが、気持ちは痛いほどわかる。

50項においては、マーク・フィッシャーは民営化が進んでいることについて述べていた。

“過去三十年間にわたって、資本主義リアリズムは教育や保険制度を含む社会の全てがビジネスとして経営されるのがごく当然なことだという「ビジネス・オントロジー」の確立に成功してきた。” P50 (マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』)

今までは公的機関が担ってきた業務が民間に置き換わる。日本でも図書館や保育などでよく見られる。この民営化の流れは1970年代には想像すら困難たったと著者は述べた。

著者はこの件に関してアラン・バディウやスラヴォイ・ジジェクの意見を引用している。抽象的であったが独自性を感じさせられた。

やはり危惧されるのは「代替可能性」という名の、ある種の暴力であろう。

今やあらゆる体験、思想、作品などが商品化され、貨幣によって「等価関係」が生まれている。人間でさえも例外ではなく、「人間のコモディティ化」という言葉はだいぶ前から見受けられている。転職市場はまさに典型的なコモディティ化の例である。

代替可能性というのは、言い換えれば「変わりはいくらでもある」ことであり、マルクスのいう「使用価値」のない人間は「不用品」扱いにされ、最悪の場合「ゴミ」として外へ追いやられることもあるだろう。

また、マーク・フィッシャーは市場の不安定性が双極性障害の症状と類似していることを指摘した。

“双極性障害とは、資本主義の「内部」に固有の精神病といっていいだろう。好況と不況を絶えず繰り返す資本主義そのものは、どこまでも根源的に双極的だが、その状態は躁的な興奮(「バブル思考」の)不合理なほとばしりと鬱的な落胆との間を周期的に揺れ動く。” P93 (マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』)

・・・

鈴木綾氏の本を読んでいると、本を読まなければ知ることがないであろう、女性特有の生きづらさが伝わってくる。

どんなに優秀でも、ある仕事を割り振られたときに「それは女性だからなのか」「それは自分の能力を考慮してのことなのか」という疑問を抱くのだという。

また、男性上司によるモラハラ・セクハラが多く、外へ行けばストーカーが待ち受けている。日本はラーメンと寿司だけじゃないと著者は語る。

世界的にもまだまだ男女平等化が進んでいないが、日本は先進国のなかで最下位だとされる。男性による半ば暴力的なあらゆる失言は日本国内の問題にとどまっているだけではなく、実際は世界も注目しているのだという。もはや東京には魅力的な労働環境がない、と考えている外国人もいるとのことである。

訓練による痛みか、後悔による痛みを選ばなければならない、というのは誰のセリフか忘れたが、どんな時代でも痛みなしに生きていけないということなのだろうか。

なにかを解決すればなにかの問題が生まれる。

常に新しい商品が生まれては死滅し、常に新しい細胞が生まれては死滅し、常に新しい問題は生まれては死滅し、常に新しい芸術が生まれてはいずれミュージアムの展示品に成り下がり(アーサー・ダントーのいう芸術の終焉)、だ。

これら全て自然法則に組み込まれているということなのだろうか。

公開日2023/9/9

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