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日記
仲正氏によれば、哲学者カントに影響を受けた劇作家のシラーは、「美しい」と判断する能力と、道徳における「善」や「悪」に関する判断の能力が、究極的には一致するという前提で物事を考えようとしたとされる。
自分もこの点に着目しながら美学と倫理について考えた時期があった。
(以下の本は難しい考察がつづき、時々読むにとどめている。)
カントの「美」の定義は「無目的の合目的性」であった。
カントの考えでは、「美」を生み出すものに意図や目的はない。
再度考えてみたが、「無目的の合目的性」を人間に当てはめるのは困難である。
そして、もうひとつ気がついたのは、「無目的」にもかかわらず「合目的」というのは意味として矛盾している。
一回このことについて考えてみた。
結論としては、カントに対する自分のこの見方は早計のような気がした。
トム・ルッツ『無目的 行き当たりばったりの思想』では「目的」に抵抗する思想としての「無目的」に着目されている。読んでいるうちに、人間の行動が無目的であってもそれは「美」とは無関係であるとすら思えてくる節もある。
そして「行き当たりばったり」というのは、ただ「偶然=セレンディピティ」に身をまかせるだけという意味合いがある。
無目的であるから「目的に合う=合目的的」というのがさっぱり分からなかった。
カントよりもプラトン的な見方のほうがより正しいのか?と思えてくる。
しかし自分は岡本太郎の本を読んで「無目的に生きる」生き方を学んだ。
その生き方とは、瞬間瞬間を全力投球で生き抜くという意味合いが強かった。
ひとつの「美学」としてそういう生き方もある。
自分で定めた道徳法則に「無目的」にしたがって生きるのがカントだとすれば、それを貫き通せばそれも「美学」であるだろうし、第三者から見れば「美」的な生き方かもしれない。
やはり奥が深い美学であった。
公開日2023/9/10