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新・読書日記116

       ジョン・スチュアート ミル『自由論』光文社古典新訳文庫(2012)

■株式会社光文社

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ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』みすず書房(2021)

■株式会社 みすず書房

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日記

昨日『自由論』のほうがあまり読めなかったので今日はこちらを重点的に読み進めた。

シンプルな文体ながらも、深い考察が展開されるのでゆっくり読むことにした。

時々、現代人にも通ずる箴言も散見されたのでそこは適宜メモをとることに努めた。

最後に池田晶子の言語観と結びつけて考えながら帰った。

  

干渉と正当性について語るミル

“物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手を幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。(・・・)そうした干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。” P30 ( ミル『自由論』 )

  

ミル「野蛮人に対しては専制を」

“自由という原則は、ひとびとが何の制約も受けずに対等に議論して、それによって社会の改善をおこなうことができる段階に達して、ようやく適用される。” P31

  

思想と言論の自由について語るミル

“その意見は正しくないと確信しているからといって、意見の公表を禁ずるのは、自分たちにとって確実なことは絶対に確実なのだというに等しい。議論を封ずることは自分たちは絶対に間違わないというに等しい。” P47

  

“自分も間違えることがあるとわかっても、自分にとってかなり確実と思える意見がその一例かもしれぬと疑う人はごく少ない。” P47

  

“自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。” P52

  

・・・

小島 信夫と森敦の『対談・文学と人生』のなかで、ゲーデルの不完全性定理によって矛盾というものとの向き合い方が変わったという話が語られていた。

この証明を素直に受け止めると、いかなる命題、いかなる格言であっても必ず無矛盾性を証明することはできないということになる。

 

「意見の公表を禁ずるのは、自分たちにとって確実なことは絶対に確実なのだというに等しい。」とミルは書いているが、ゲーテルに言わせれば、どんなに議論を交わしても絶対的に正しい思想というものは確立できないことになる。

このことを考えるとまた原点に戻る。

自分というこの、今瞬間、瞬間を感じてる<私>というものまでは疑い得ない。それは確実だとデカルトはいったわけであるが(しかも8年も考えたうえで)、今では、デカルトは誤っているというのが通説になってしまっている。

絶対に確実なことはないとすれば、ではデカルトが確実に間違っている、という言明にも矛盾がないとは言い切れないことになる。

  

これを数学の領域で究めたのはゲーデルだとして、言葉の領域で究めた人の一人は池田晶子だと自分は思った。

自然界と言語はどのように対応しているか。

「石がそこにある」という事実は確実で矛盾がないように思える。

しかし、これを突き詰めるとカントのいうア・プリオリの領域にいくように思える。

文法は1000年単位でコロコロ変わる。名詞もしかり。

2000年後には「石がそこにある」という文章では通じないかもしれない。

なにかと似ている。貨幣である。

すべては「そうなっているから」という信頼に基づいていることが分かる。

   

そうなっているから、というのが言葉の限界なのだろうか。

「そうなっているから ≒ ア・プリオリ」とプラトン「イデア」は似たようなものだと思うのであるが、絶対主義を否定する相対主義者には、このことをどう捉えるのだろうか。

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