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読書日記1152

         斎藤環『映画のまなざし転移』青土社 (2023)

■株式会社青土社

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日記

パラパラと読んでいたら、アメリカ人による芸者風のスタイルが「日本文化の盗用だ」という批判をされた、というくだりを読んだ。斎藤氏は行き過ぎたポリティカル・コレクトネスだとしたが、自分もぽかーんという感じになった。

政治的正しさという言葉、考えれば考えるほど奇妙である。

政治的に正しいことが存在するならば、それは世界には答えがあるという前提が暗黙の了解として存在しているはずである。

一応のところ、もしそのような世界があるならば、それは現状としてはプラトン『国家』で描かれたような社会が一番近いのではないだろうか。

自分には彼らの個人的な主張が「政治的正しさ」という言葉によって「正当化」されているようにみえてしまう。「政治的正しさ」という言葉を乱用しているとすら思えてくる。

しかし彼らの気持ちも少なからず共有はしている。

理性では割りきれない問いも複数存在するかもしれない。

理性の行き詰まりは『啓蒙の弁証法』で書かれている。

AIによって自己家畜化が加速すると思われるこの世界において、実は感情というものは最後の審判として君臨するのではないだろうか。

感情の科学はおそらく限界を向かえる。

感情を解き明かす前にAIによってかつての人間観が失われていく。

ポリティかル・コレクトネスは何への抵抗なのか。

いまいちパッとしない読書時間であった。

公開日2023/9/29

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