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日記
専門書を読むのはかなりエネルギーと集中力を要する。
さすがに疲れてしまった。
リオタールのほうは20分ほど読みつづけたが何も分からなかった。
小田部氏のほうは美学を初めて確立したとされるバウムガルデンの学説を整理するところからスタートした。
今日は専門用語の整理、理解するだけでかなりの時間を取られてしまったが、美学をもう一段階、もう二段階深く理解したいので定期的に読みたい。
感覚と言葉というものはなかなか一致しない。
「痛い」という言葉でさえも、どれくらい痛いのか一致しない。ある刺激Xを数値的に定めたとしても、それがどの程度「痛い」のかは各々受け止め方が違う。
美学は感性に関することを考察するにあたって、こうした定性的なものをどのように客観的にアプローチするかという難問に立ち向かうものだと思われる。
脳科学と違う点は、言語や文学的な表現と感性の相関を研究する点にあると思われた。
その相関を数値化して研究するのが科学であって、科学は「なぜ美しいのか」「なぜこの表現が美しいと感じるのか」という問いには答えられない。それは価値を取り扱うからである。
バウムガルデンの言葉を引っ張りたい。
「構想像を感覚に最も類似したものにすることは詩的である」
・・・
つづけて、ある作家の美学的考察を読んだ。
資本主義で最も価値の高いものは「お金」であり、二番目が「美」であるという。
それは歴史的に、古代では「美」が最も大事にされてきたのではないか、という作家の考えによるものであった。
ソクラテスの『ヒッピアース大』を思い出した。
美しいものは有益である、しかし悪にもなり得る。美は何故善になり得ないのか。
ソクラテスでさえも美に対してはお手上げだったと記憶している。
また、作家は「目的を持つことで劣悪にある」とも書いていた。
これはなかなか鋭い洞察ではないだろうか。
カントが美の定義を「無目的の合目的性」としたことと矛盾しない。
自分は考えた。目的を持つことによって何故劣悪にならなければならないのか。
アリストテレスは『二コマコス倫理学』のなかで、最終目標である「幸福」に到達するため、その過程に向かって行うことを「善」としたと記憶している。大学時代の講義で学んだ。
その作家は目的と目標の使い分けが難しいと書いていた。自分も少し考えたがたしかに難しい。わずかに分かったのが、目標という言葉は「最終目標」という表現ができるが、「最終目的」という言葉はあまり使われない、というくらいであった。
・・・
美は有益性のある限り「善」の一部である。しかし美自体は善ではない。プラトン的には美に徳が備わらなければ悪とみなされるかもしれない。
幸福はそれ自体で善いものであるが、美はそうではない。
ぞれ自体で善でない、とはどういうことか。
だんだんとややこしくなってきた。
「それ自体」とは「無目的」と考えてみる。
であれば美は無目的であるから善であるはずである。
しかしこの論理で進めていくとカントと矛盾する。さあどうする。
そもそもカントは美を善と書いていたのだろうか。
そこを確かめないといけないのが一点。
カントは目的をどのようにとらえていたのかを確認しないといけないのが二点目。
ひとまず整理をしてみたが、以上の問題意識をもってカントの本を読めばなにかを掴めるかもしれない。
公開日2023/10/2