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読書日記1165

アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物:ヒトにはなぜ徳が必要か』法政大学出版局 (2018)

■一般財団法人 法政大学出版局

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カント『道徳形而上学の基礎づけ』光文社古典新訳文庫 (2012)

■株式会社光文社

公式HP:https://www.kobunsha.com/

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/24/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981164/

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日記

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日記

『実力も運のうち』を書いたマイケル・サンデルはコミュニタリアニズムの陣営に属する。あと有名どころではチャールズ・テイラーも属する。そしてマッキンタイアもその陣営にいるとされる。

『美徳なき時代』は結局積読になってしまった。ひとまず共通善について考えてみたくなりこちらの本を読むことにした。

朝はマッキンタイアから読み始めたが、朝からこれはきついと感じ、30分ほど経ってからカントに集中した。書店での立ち読みを除いて、結局そのまま夜までカントしか読まなかった。

・・・

200ページまで読み終わってからもう一度最初のページを読むと、少し違った印象を持った。カントは倫理学を「自由に関する学問」と位置付けている。なぜ自由なのか?倫理は徳や人間の在り方、生き方の規範を突き詰める学問ではなかったのか。しかし200ページまで読むと、自分はその時に想起できなかった事をいろいろと思いだし、最後には「たしかに自由に関する学問だ」と納得した。

やはり池田晶子の言葉が頭に残っていたからであった。池田晶子の言葉は何故かあまりメモを残していないので正確には覚えていないが、自由に生きるため、幸せに生を送るにためは「善く生きるということはなにかを考えるんだ」と彼女は言った。深く深く考えれば考えるほど、これは綺麗事ではないと分かる。最高レベルにまで抽象度を上げて行動の原理、法則、義務、それらと理性との関係などを考えていくとシンプルに究極的な「自由」とは何かという問いと直結する。

まず129ページのカントの言葉をメモした。

“実践哲学においてわたしたちに重要なのは、生起した事柄の根拠を問うのではなく、何も生起していないとしても、生起すべき事柄の法則、すなわち客観的で実践的な法則について問うことである。” P129

日々の行動において、人間はどんな原理によって動くのか。

人間には気分に基づいて「ノリ」で行動したり、約束事のような「義務」に基づいて行動したり、自分の「信念」に基づいて行動する。時には「なんとなく」や「とくに理由もなく」行動することもある。カントは、人間の追求するものは「幸福」という想定で、ではそれに達するためには何が必要なのかを、今風の言葉で言えば「誰が見てもぐうの音もでない」くらい完璧で論理的な道筋を示す。

池田晶子がお金と自由について語っていたことを思い出した。

「お金に目が眩んだ」

不正受給などの報道でよく取り上げられる言い訳である。

字義通り、目が眩んだというのは判断が利かない状態にあったという意味において「不自由」であることを指す。「魔が差した」も然り。意志の力によって制御できないことも「不自由」である。

人間の意志の力など所詮その程度だとカントは自分でも思っていたのかもしれない。だから意志は「普遍妥当性のある法則」に従わなければ自由にはなれないと語る。

カントの構想は「不自由への抵抗」であると思えた。

だから倫理学は「自由への学問」なのだとも言える。

このように文章を書き進めていくと池田晶子の言葉が降ってくる。いや、ソクラテスの言葉だったか。もう思い出せない。

「人は悪いと思って行動する人はいない」

悪いと思っている「つもり」であっても、本人からすれば「してみたい」、または「それが正しい」と思っているから「する」ことになる。(自分にとって)「善い」と思えなければしない。リストカットのケースも同様で、どうしようもなくやらざるを得ない。悪いと分かっていてもこれしかない。するしかない。だからすることが「善い」と判断してするはずである。

これらの行為が「客観的」には「正しくない」ということは分かる。

カントの完璧さは、この本が「客観的」に見てなにも非の打ち所がないほどに論理が貫徹しているところにある。

カントは行動の原理から、気分や打算といった帰結の「不確実」なものを一切排除する。

普遍妥当性のある法則に意志を従わせる行為が崇高である、というくだりは読んでいて美学と直結するものを感じた。

無目的の合目的性。

生き方に帰結を求めず、無目的であり普遍妥当性のある法則に「合わせる」ことが自由の条件だ、と。

カントは「自己矛盾」を排除した。

「それ自体」で善い意志。

目的というものを行動として設定するとどうやら普遍妥当性のある法則からはみ出してしまうのだという。

“動機は行為の結果と予測させることで、意志に影響するのである。「わたしは何か別のものを意欲するがために、何かをなすべきである」ということになる。” P180

ようするに、自己完結した行動こそ、崇高であり自由なのだ、と。

カントは他律を排除する。あくまで自分で定めた法則だけに従え、と。

“絶対に善い意志とは、悪くありえない意志であり、その [意志の採用する] 行動原理を普遍的な法則とした場合にも、決して自己矛盾に陥ることがありえない意志である。だから次の原理こそが意志の最高の法則でもある。これは「いつでも、同時に法則として普遍性をもつことを意欲できるような行動原理にしたがって行為せよ」という原理である。これは意志が自己矛盾に陥ることがありえない唯一の条件であり、こうした命法は定言的な命法である。” P161

「自分がやられてほしくないことを、他人にしない」という法則はカント的にはNGであるという。そこに普遍性がないことがすぐに分かるからだという。

自分にはやられてほしくないと思う行為は、必ずしも相手にとってもそうであるとは限らない、という例が複数存在する。

しかし、ここまできて本当に普遍妥当性のある完璧な法則というものは存在するのだろうか。

カントは慎重で、最後に難問に関する考察をするようである。

さすがに今日一日ではそこまで追いきれなかった。

とはいえ、美学の古典といわれる『判断力批判』との接点をこの本で知ることができたのは大きい。ちまたにある美学入門の本はなぜこの本を薦めてくれなかったのか。

つづく

公開日2023/10/10

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