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読書日記1168

     熊野純彦『カント 美と倫理のはざまで』講談社 (2017)

■株式会社講談社

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日記

今月はアドルノの本を読み込もうと思っていたが、アドルノ『道徳哲学講義』を読むにはどう考えてもカントを読まないと無意味な気がしてならなかった。

また、哲学者アランもカントの本を相当読み込んでいたようであったので、哲学書を読むにはカントは避けられないように感じた。

結局『判断力批判』と併せて『カント 美と倫理のはざまで』も再読することにした。

『道徳形而上学の基礎づけ』が思った以上にカントの本の理解への基礎づけとなっているように感じている。

習うより慣れろという言葉があるように、解説書で習うよりも古典を読みふけるしかないと感じた。

気分のせいもあるかもしれないが、本屋に行っても読みたいと思える本が少なくなってきた。

こういう時は新しい分野の開拓か、以前とは違った読み方をする必要がある。

自分はもう一段階、もう二段階深い読書をしたいと思ったので古典にしがみつきたい。

『判断力批判(上)』は長すぎる序論をなんとか読み通し、130項ほどまで読み進めた。

今日は理解しづらかったカント用語の「適意」の意味を自分なりに解釈した。自分は池田晶子の「哲学書を読むときに哲学辞典や参考書を見てはいけない」という言葉を胸に刻んでいたことを思いだし、古典はなるべく自分の力で読んでみようと思っている。

「適意」に関しては「すべて、それ自体で快の感覚であること」と書いてあった。

(言語化できるけれどもそれを二語で表すような熟語は無いことが多い。

だから哲学者は簡潔に表すために用語をいろいろと作るわけであるが、こういうのは本来原典を読み、その言語のなかで理解すべきなのだろうけれども、自分はドイツ語ができないので中山さんを信じたい。)

今日は正直なところ適意という言葉の定義を追うだけで時間をかなり食ってしまった。

あと確認したのは快と善の違いについてのカントの見解である。

「それ自体で善いこと」

『道徳形而上学の基礎づけ』で出てきた表現だ。

例えば、健康であることは「快」であるが「善」ではない。何故か。

極端に考えると、ニートがいたとして、彼は健康であるとしても、健康という「快」はなんら社会に貢献することがないために、むしろ「悪」とすら言える。そういう意味で健康による快はそれ自体では善ではない、というのがカントの見解であった。これは理解しやすかった。

善きものへと向かう傾向性を持った快は善となりうる。

カントなりの善悪観を少し吸収できた。

いずれプラトンとの比較も行いたい。

これに加えて「美」の概念が入ってくると話は少しずつ複雑になっていく。

例えば『カント 美と倫理のはざまで』の19項には「美はそれ自身としては善ではなく、倫理でもない」と書いてある。

この本は一度全部読んだが、だからといって内容をしっかりと理解しているか、と問われれば自信がない。

この一連の読書とマイケル・サンデル氏の『実力も運のうち』を結びつけたり、過去に読んだいろいろな本と結びつけてなにか新しい視点を持てるようになれることを期待したい。

つづく

公開日2023/10/14

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