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読書日記11174

ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル:差異の倫理にむけて』フィルムアート社 (2022)

■株式会社フィルムアート社

公式HP:https://www.filmart.co.jp/

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/filmartsha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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日記

書店でぶらぶら立ち読みした。

集英社新書『自由の危機』を少しだけ読んだ。まず項目が非常に政治的である。「学問と自由」は日本学術会議の任命拒否問題のことである。「芸術と自由」はあいちトリエンナーレ問題のことである。こういう話がおそらく半分を占める。ちょっとイライラしてしまったのでサッと本棚に優しく戻した。

何故イライラするのかというと、空気の研究者で知られる山本七平が小室直樹に話していたように、日本人の考える「自由」と西洋の「自由」は若干異なるからである。そして日本的な「自由」というのは、「~からの自由」なのだ。規制からの自由。不自由さからの自由。物理的な自由。経済的な自由。

それは違うな、というのが今の自分の考えである。

何故ならば「自由とは何か?」という問いがこの本には欠如しているように見えたからである。(もしその問いが『自由への危機』のなかにページを割いて深く考察されていれば訂正、撤回したい。)

自由への問いなしに「自由の危機」と謳ったところで結局それは何か権力への不満だとか、文句だとか、その程度にしか聞こえない。

池田晶子は三枝和子という人物について言及していた。

三枝和子という人物がいうには、プラトンは「男の哲学」であり、彼女は「女にも哲学ができる」ことを証明したかったとされる。

池田晶子は応援しているとメッセージを添えたものの、「難しくないことを難しくしなくていい」と語った。

特にジュディス・バトラーの文章は難解で、他のフェミニズム系統の本も何故か難しいものが多い。ケイト・マンの本も再読したがやはりダメだった。自分は関心があったが、それ以来フェミニズム系統の哲学書は敬遠してしまっている。

今でいえばLGBTQの研究者という位置付けになるのだろうか。

自分は哲学は池田晶子のいう「考えるということを考える。もしくは存在や言語の謎について考える」ことだとある程度思っているので、こういう三枝氏の発想も政治的なものと思えてくる。

倫理というものが蔑ろになっていないだろうか。

しかし気持ちは多少分からなくもない。カントは明らかに黒人と女性に差別的であることは読んでいても分かる。

そういう人間の文章なんて読みたいと思えないだろう。

・・・

マーサ・ヌスバウムも女性の哲学者であるが、彼女の文章は非常に論理的で読みやすい。翻訳の問題なのか?このあたりは謎である。

一旦、マーサ・ヌスバウムの言葉を書き残して日記を終えたい。

“ネズミのように一見単純そうな生物でさえ、他のネズミが受けた身体的な苦痛に自らも苦痛を感じるーーその特定のネズミと一緒に生活したことがあればの話ですがーーことが今日では知られています。” P50

“指導者を信頼するのは、脆弱なエゴが不確実さから自らを守るためのよく知られた手段です。” P54

公開日2023/10/20

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