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その他数冊
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日記
朝からモヤモヤしていたので本気で一日読書をすることにした。
朝はたしか『文学とエコロジー』を読んだ。
市場原理と文学の在り方が近代から現代へ向けて徐々に変わっていく様子が書かれていた。
自分は朝の読書では引用をしていなかったのであまり記憶に残らなかった。ちょっと失敗である。スタバでとなりに座ってきた中年の女性の声が大きくて読書に集中できなかったのかもしれない。
とりあえず結論だけ何回か読み直した。本は既に娯楽装置としては最終形態であり、売れないのであれば売れる工夫をしなければならないというシンプルなものであった。
Twitterを見ている限り、本を読んでいる人はまだまだ沢山いるので読者の期待を裏切らないように、文章を日々研磨しなければならない。
また、次世代のために価値ある本の継承、加えて創造も並行して行わなければならない。そして本に関わる全ての人への感謝、敬意を持ち、本の価値を伝えつづける努力を怠ってはならない。
・・・
科学が人間の生活を快適にしたことは否定できない。しかしプラスとマイナスは常にセットで、核という負の遺産をも同時に生み出した。
経済成長の果てにあるものはユートピアか、ディストピアか。予測は不可能である。
この問題を文学は無視することはできない。
しかし真面目な話をすると読者は「説教くさい」と感じる。これを乗り越えなければならない。
“この「悪循環」、「よくしようとすること」が「より悪いことを招く」悪循環こそ、筒井康隆がSFを通じて描こうとした生涯のテーマである。(・・・)そこに希望を持ち、様々な努力をする以外には道がないこともまた確かだ。” P31
次に、虚構の価値への見解について、筒井氏がフロイトと共通するものを持っていたことが書かれていた。(「」内はフロイトの発言)
“フロイトはその価値は認めつつも、限界があるとして全面的な解決が可能なものとは認めない。「われわれは、文化の本質にまつわりついて、いかなる改革案をもってしても除去できないと思われる困難もあるのだという考え方にも馴染む必要があるかもしれない」。” P101
・・・
よくしようとしないことが逆に善い結果を招くパラドックスも十分にあり得る。
文学はもはや何もしないことによって、逆説的に有益生を生み出すことしか期待できないものなのだろうか。自分は読んでいてそのような疑問がわいてきた。
本屋に行けばレトリックに関する入門書、あるいは辞典がある。
66ページにはこのくだらなさについて書いてあった。
“ある効果を生み出し、そしてそのことで「認識をひらく」はずであったレトリックは、規則を破ることによってその効果が生まれたにも関わらず、やがて規則となり人々を拘束していくようになる。” P66
何かに似ている。
反動として始まった音楽が、次第に反動としての意味を失いファッションとして機能してしまうということに似ている。
また、アーサー・ダントーのいう「芸術の終焉」のような原理に似ている。
意味が無意味へと変容していく。
まるで記号に寿命というものがあるかのようである。
意味と無意味については過去にいろいろと考えたことを思い出す。
例えば鬱病は、全てには当てはまらないが、意味のある存在でいたいという態度から始まると自分は考えている。
まるでエントロピーの法則のように、意味という塊は破壊され、無意味と化すかのようである。
吉田健一は文学におけるこのパラドックスについて、『文学の楽しみ』というタイトルそのものに表れているように、「楽しむこと」に重きを置く。
しかしそうなると「人生は楽しんだもんがち」という態度になる。
半分は正解だが、半分は間違っている。プラスとマイナスの共存。
・・・
斎藤孝氏の本を読んだ。
2020年の時点で700冊も世に出しているらしい。これは上位3位に入るレベルの数ではないだろうか。なんという数字。
「アウトプットは質より量」
この言葉に救われる。
質に時間をかけるとアウトプットがおいつかない。
正直この読書日記1176も、本当なら5000文字くらい書くことはある。
しかし自身の能力不足か、毎日5000文字以上はかなりきつい。
・・・
『人間になるということ』を読み、キルケゴールの人柄への理解が進んだ。
現代への批判がどういう性質のものなのか、どういうベクトルなのかを把握した。
一言で言えば「打算」に収斂する。ここで自分はキルケゴールと同じ想いを共有した。
“キルケゴールは「現代」の悪しき傾向について次のように記述している。「信頼ではなく保証に、危険を冒すのではなく蓋然性や賢い計算に、行為ではなく出来事に、一人の人間ではなく数人に、人格ではなく非人格的な客観性に」。(・・・)これらはいずれも結果を確保しようとする態度である。” P114
キルケゴールのこの怒りは岡本太郎の現代社会への批判と重なることは間違いない。
岡本太郎は純粋であろうとすると困難がつきまとうことを読者に語っていた。
自分も、約30年のわずかな人生経験において、純粋であろうとすることから派生する問題をいろいろと経験した。
日和見主義者がいかに多いか。
打算的な人間がいかに多いか。
うんざりするほど見てきた。
そして友達がいなくなり、ひたすら孤独に向かっていく。
それでも人生に妥協をしたくない。
岡本太郎、池田晶子、『月と六ペンス』のストリックランドのような人物に憧れる。
それで死ぬようであればその程度だったと思え、というのが執行草舟氏の言葉であった。
この言葉が自分は好きだ。
今日、ジュンク堂書店で執行草舟論の新刊が出ていたが、軽く立ち読みし中身を確認したが内容がかなり難しく、購入を避けてしまった。
今は『現代の考察』を再読しようか検討中である。
読みたい本が多すぎて大変だが、無理せず弱火でじっくりいきたい。
つづく
公開日2023/10/21