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読書日記1185

     ブライアン・ヘイズ『ベッドルームで群論を:数学的思考の愉しみ方』みすず書房 (2010)

■株式会社 みすず書房

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日記

昨日は、数学的な操作、手続きを経て何かを「発見」することと、プラトンの言う「想起」との違いについて考えた。今日もつづきを考えた。

まず人間が数式を見て万人が同じ仕方で理解できるというのは、数式の完全性というよりかは明らかに人間の認識能力の完全性によるものと思われた。

数式の前に、人間が「そうである」と自明に思うことのできる認識能力が先にある。

従って、数式はいわば認識能力の副産物のようなものである。換言すれば、存在の形式が数式に投影されていると言える。

池田晶子は「存在の形式と内容は矛盾する」と言いきった。

改めて考えたい。

Webの辞書で検索にかけてみると、形式は「かたち」であり、内容は「質」とされる。

ざっくり言えば前者は目に見えるもの(=量的なもの)、後者は目に見えないもの(=質的なもの)である。

具体的に言うと、「私はこんなに努力をしました!」と言うとき、前者はその量で示し、後者は量に還元できないものである。前者は膨大な資料や時間で示すことが可能だ。後者は感情的な話になることが想定される。(私はこんなに苦しいときにここまでやったのだ、等)

よって、形式は「目に見える」もの、内容は「目に見えない」ものと考えて妥当だ。

戻る。

存在の形式と内容は矛盾する、という命題を残した池田晶子のその真意を再度考える。

つまり、人間の量的な性質と質的な性質は矛盾するという意味だと考えられる。

前者は科学的な記述に終始するだろう。後者は定性的な記述に終始する。

ドーキンスの科学主義を読んでいると、ヒュームの法則を経由し、池田晶子の命題へとたどり着いた。

「~である」から「~べき」を導けない。なぜか。

これはかなりの難問だが、少しヒントを得た。

つまり、これは「存在の形式と内容が矛盾する」ことと似ていると自分には思われたのであった。

そう考えればなぜ難問であるのかが幾分か納得いく。

「~である」という記述は形式的で、「~べき」は内容が伴う。

形式的なものが内容に溢れているとは思えない。直感的にはヒュームの法則は理解できる。

ここでまた戻る。

数学的な操作から得られるものはあくまで「形式的」なものなのではないか。

プラトンの「想起」はそうではない。

存在の形式が数式に投影されていると自分は考えた。

先に内容がなければならない。

ここでひとつ、有力な手がかりを得た。

「~である」から「~べき」を導けないのは、それが不可逆だからではないのか。

つまり、さきに「~べき」があって、つぎに「~である」でないと一貫性を持てない。

さきに「内容」があって次に「形式」がなければ、そもそも数式は存在しないことは先ほど書いた。

そうではないのか?自分なりにヒュームの法則、「~である」から「~べき」が成り立たない意味を考えた結果は以上になる。

公開日2023/10/31

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