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日記
第7章「フェミニズムは「男性問題」を語れるか?」を読んだ。
著者の主張をざっくりまとめると、社会構築主義に依拠するフェミニズムはもうちょっと生物学的な「男性らしさ」について研究したほうがいいのではないか?というものであった。
共感できる点とできない点があった。答えのない問題なので仕方がないと思われた。
読書日記1188に書いたように、科学的な正しさと政治的な正しさを明確にする必要がある。
自分はさらにヒュームの法則でこの考えを応用させることを提唱したい。
科学的な正しさは「事実」に基づく。ゆえに「~である」で構成される知の体系である。
政治的な正しさは「価値」に基づく。ゆえに「~べき」で構成される知の体系である。
ヒュームの法則は「~である」から「~べき」を導くことはできないとする。
これがジェンダー問題が困難なものとなっている原因だと自分には思われた。
なので、ベンジャミン・クリッッツァー氏の主張「もう少し科学的な知に基づく「男性らしさ」というものと照らし合わせてジェンダー問題に取り組んでみてはどうか」は、ヒュームの法則によって破られてしまうように自分には思われた。
結局は、科学的なただしさと政治的なただしさは完璧に統一することはできないのかもしれない。
社会構築主義は主観性が強く、理性的なアプローチから外れることもあるかもしれない。
では現象学的に考えるのはどうだろうか。
現に今フェミニズム現象学という分野が盛んになりつつあるように見える。
いろんな方法を模索することが大事なのではないだろうか。
公開日2023/11/6