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感想
トインビーのことを知り、文明に関する本を2,3冊読んだ。
その後、ベンサムの読解とカントの読解を同時に行い、暴力というものを少し考えてみたいと思うようになった。(とは言いつつも、ただ本を読みたいだけである)
中公文庫から出ているガンディの自伝は分厚くて躊躇してしまった。なので薄いこちらの本であれば読めると思った。2日かけて最後まで読んだ。
ガンディは良い例えをしている。
ウイルスが、最初はごくわずかの数で体内に侵入し、DNAからRNAへの転写時に増殖して量的に拡大していくように、悪というものも最初は小さいのだという。
宿主は「欲」である。
欲という名の細胞に寄生し、ウイルスは増殖し、やがて病気へと至る。
ガンディの思想は武士道 (『葉隠』) と通ずるものを感じた。
深いところで池田晶子とも通ずるものを感じた。そういう意味では、ガンディもプラトンに近いと言える。
宮台氏が、脱構築について言及していた際に、概念言語の否定自体が概念言語の二項対立にハマってしまっていると書いていた。社会で生きている以上は言語的に構築されたシステムの自己運動からは逃れられないと宮台氏は語った。
自分の理解では、「社会がなぜクソなのか」というのは、「結局は概念の問題だから」というのがその答えだ。
概念は「社会をクソにしているその言葉」によって構成される。
クソ社会の元凶である概念を構成する「言葉」というものにたいして、それを否定したところで、結局転轍機のリレイスイッチのように、つぎの二項対立へと誘い込まれるだけである。
信仰はこの二項対立を越境するひとつの手段だと自分には思われた。
デカルトは限界点を越え、心身二元論へとたどり着いた。
池田晶子は、「人が信じることが可能なのは、限界まで考え抜いてもなお、疑いきれないという経験を経た時のみである」という趣旨のことを書いていた。
本書に書かれているガンディの言葉はどうだろうか。
読者はまず受け止めて、それについて考え抜くことが求められると自分には思われた。
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読書日記1208
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その他数冊
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日記
『始まりの木』は100ページほど読んだ。
民俗学者、古屋神寺朗の行動、学問に対する姿勢から自分はいろいろと考えさせられた。
学問のかたさをエンタメ性のある面白い物語がカバーしているので読みやすい。
読んで思ったことは読み終えた時に書きたい。
・・・
『憲法についていま私が考えること』のなかの、養老孟司氏の箇所を読んだ。
養老氏の意見は、憲法を書き換えても基本的には何も変わらないというものであった。
自分も概ね同意する。それは、現代ほど言葉の価値が貶められている時代はないと思うからである。
島田雅彦氏が「言葉とは商品価値である」と言っているくらいだ。
言葉は精神から物質へと変わり果て、物質として、商品として生まれ変わった。
もはや言葉には実情を動かす力はない。それが養老氏の意見であった。何故か。
「言葉がいじくられているから」というものであった。このテーマが高島和哉『ベンサムの言語論』と重なる。
養老氏は「管理」という言葉と「危機」という言葉がくっついて(=いじくられて)「危機管理」という言葉ができたのは、「覚悟という言葉が死語になったから」と述べている。
危機は管理できない状況のことを指す。管理は危機のない状態のことを指す。
つまり、水と油が一体になった矛盾した言葉なのである。
言葉というものがまるで物質であるかのように、合成されている。
プラスチックのように、還元不可能な言葉が増えていくとベンサムのいう「虚偽」が増えるのだと自分は思った。
「危機」と「管理」という言葉が不自然に合成された結果、「危機管理」という還元不能物質(=自然分解されない=消化されない=咀嚼されない=理解されない)が生成された。
いろいろと考えさせられた。
公開日2023/11/25