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姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文春文庫 (2021) 読了 +読書日記1194

      姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文春文庫 (2021)

■株式会社文藝春秋

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つづきをよみおえた。(読書日記1193に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/27/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981193/

  

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感想

一週間かけて読み終えた。リミットを今日に設定したので、450ページくらいから先はスピードを上げて読んだ。長い物語であった。

読み終えて思ったこと、それは、このような500項にわたる長い物語を、この物語に含まれる膨大な情報量を、要約というかたちあるいは別の方法によって、伝達などできるのか?という疑問であった。そして自分は無理があると思わざるを得なかった。そしてこの問いはジャーナリズムへの問いかけでもある。

本の要約というのは、それが可能かどうかは分野によると自分には思われた。

全ては情報量に依存する。言い換えれば、要約可能な本というのはたいした情報がないわけである。しかしこの本が書かれるに至った事件の情報量は明らかに膨大である。

「今日はなにもなかった」という一日は、たしかに情報量が少ない一日だったかもしれない。

ただ、事件というものは一日一日の積み重ねのようなものであり、文脈があり、様々な人物がいて、一人一人にも物語がある。事件とはこれら全ての総体だと考えると、たかだか報道のわずか数分のコマでなにを伝えられるというのだろうか。

「情報」とは少なければ少ないほど、それは逆説的にもはや「情報」ではなくなる。

それはこの事件のニュースに対する世間の反応というものが証明しているように自分には思われた。

一部の人は、知識が少なく情報をあまりもっていない人のことを「情弱」などといって見下す傾向にある。しかし「情報」とは何だろうか。

池田晶子は「地球の裏側で起きていることを知ることに何の意味があるのか?」と書いていた。

この本を読み終えて、この言葉の意図が少し分かった気がする。

もう一度強調したい。

情報とは、そのパッケージに含まれる情報が少なければ少ないほど、それはもはや情報ではない。

なにがあったのか、なにが起きたのか。

今日は東京のどこどこで殺人事件があった。

今日はどこどこの会社で不正があった。等

その情報量を本屋で例える。

・本屋に『彼女は頭が悪いから』という本があった。

・『彼女は頭が悪いから』という本は姫野カオルコという人物が書いた。

・その本は税抜き870円であった。

・その本は実際に起きた事件をもとに作られた小説である。

それでいったい何を知ったことになるのだろうか。

「ああ、姫野カオルコね。知ってるよ。『彼女は頭が悪いから』を書いた人でしょ?」

「ああ、なんちゃらモーターね。知ってるよ。自分のものでもない木に除草剤まいたって会社でしょ?」

もはや情報ですらない。

この本についてどれだけ熱く、どれだけ細かに書いても、実際に読まれなければ伝わらないことが沢山ある。

しかも、本を読んでも分からないことのほうが大半である。

当事者ですら気づかない、ジョハリの窓「未知の窓」も山ほどあるかもしれない。

伝えることの難しさを突きつけられた。

とりあえず、情報を集めることに必死になっている人がいたら止めるべきなのかもしれない。

情報とは何か?という問いが先になければ情報というものを適切には扱えないように自分には強く思われたのであった。

これを忘れずにいたい。

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読書日記1194

高島和哉『ベンサムの言語論:功利主義とプラグマティズム』慶應義塾大学出版会 (2017)

■慶應義塾大学出版会株式会社

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つづきをよみすすめた。(読書日記1193に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/27/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981193/

   

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日記

第一部「ベンサム思想体系の哲学的基礎」を読み終えた。

昨日は功利主義はトロッコ問題で躊躇なく少数者を犠牲にするだろう、という懸念について書いた。

今日はそれが誤解だったことを認識した。

というのも、ベンサムがこのことを考えていなかったわけはなく、「最大多数」という言葉をのちに除外しているということであった。

2001人の命のために2000人を犠牲にする。

それが2001人のためになるなどと誰が思うのだろうか。そういう当たり前のことをベンサムは当たり前のように考えていた。自分のなかで功利主義という言葉が一人歩きしてしまった。

ベンサムは条件付きで「最大多数の最大幸福」としたようである。

・・・

著者は、ベンサムは「限界効用の逓減」が「幸福計算」という構想を破綻させるものだと認めていたのではないか?と指摘する。

しかしベンサムは落胆せずに考えつづけた。

そしてベンサム思想の射程範囲は経済と貨幣に広がる。

”「快苦の量を計算するための道具」としての貨幣について「この道具の精度に不満な人たちは、より精度の高い道具を発見するべきである。さもなければ、政治学や倫理学に別れを告げるべきである」とも述べている。” P103 (『ベンサムの言語論』)

ベンサムは快楽の概念をまず言語上の問題として基礎づけを行い、その土台から経済と幸福度の関係性について思想を練り上げている。

そして幸福計算の構想を進めていくわけであるが、読書日記1193に書いたように、ベンサムは「共感の快楽」も想定していたので、博愛的な人間の関係から派生する幸福についても考慮にいれた。幸福計算は貨幣のみによって行うことはできない。

しかし基本的には功利主義は「利己主義」に依拠する。従って、利己主義的な考えから起きる「市場の独占」など、様々な問題が生まれることが当然予想される。

これをベンサムは「利益の人為的一致」で解決しようと考えた。

その解決の手段として持ち出されるのは「法律」であった。

“すなわち、ベンサムによれば、「功利性の原理」を基礎に据えた彼の思想体系の目的は、この原理に従いつつ「理性と法律の手で幸福という構造物を産み出すこと」に存したのだ。” P108 (『ベンサムの言語論』)

つづく

公開日2023/11/11

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