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つづきをよみすすめた。
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日記
本書を読み始めた当初、功利主義は「2001人vs2000人」という対立になれば「最大多数の最大幸福」の原理によって2000人が犠牲になると自分は思っていた。
その誤解は第一部の前半を読んですぐに解消されたが具体的な話までには及ばなかった。
第二部からはベンサムの法理論が展開され、具体的な話に突入した。
ベンサムは10代の頃からイギリスのコモン・ローが不条理なものであると感覚的に思っていたとされる。
むしろ、そう思えなければ思想というものは出発しないので、当たり前といえば当たり前である。
ベンサムが感じていたのは、軽い犯罪にあたるものが重い犯罪と同じ扱いを受けていたり、その逆もまた見受けられていたということであった。
また、法律の周知性と明示性の欠如も問題だと考えていたとされる。
「知らなかった」では済まない。
しかしそういう法律があるということを、本来であれば市民が全員知っているべきであり、そうでないのはある意味不平等でもある。
ベンサムと法律の公開性に関する本が別の出版社から出ていることもあり、この点についてはベンサムの独自性が強いのかもしれない。
・・・
ではその法体系をいかに再構成すればいいのか。
その内容に入っていく。
塵も積もれば200ページ。
このような敷居の高い本をここまでコツコツ読んだのは久しぶりだ。
すると、やはり自分はこういった分野に興味・関心が高いのだなと客観的に分かる。これがブログをやることの良い点だと感じた。
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ベンサムは私的利益と公益を合致させることを究極の目標とした。
“結論からいえば、法律は各人の私的利益を社会全体の公益に合致させることを通じてそうした手段たりうる、というのが彼の考えであった。” P161
理想論であれ、公理の設定は重要なポイントになるだろう。
この公理に合わせてベンサムの功利主義が構築されていくわけである。
この公理だけをみれば、カントの義務論とほぼ同じだと思われる。
それが現代の論争では何故か「カントの義務論vs功利主義」と陣営が分かれる。これはどこかで必ずカントの義務論と分岐点が生まれるということになるのだろうけれども、いったいそれは何によるのか。
この疑問だけを頼りに自分はこの本にしがみつくことができている。
理想の法律の在り方に関しては、171項にもう少し具体的に書かれていた。
“ベンサムが理想としたのは、有能な立法者が法律によって諸個人の生活にあれこれと干渉することを通じて、統制主義的かつ権威主義的に社会の幸福総量の増大を積極的に図っていくような法治国家像ではなく、むしろ立法者がすべての市民に等しくその「生命、身体、評判、財産、生活条件」に関する「不可侵性の領域」を保障し、それによって、彼ら一人ひとりが(自らも他者のそうした領域を侵さないという条件の下)自由に自らの「善の構想」を形成し、安心してそれを追求していくことができるような環境を整備することを通じて、間接的に社会の幸福総量の最大を図っていくような法治国家像であった。” P171
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まだまだ抽象的に展開されていくが、ベンサムが「安全」という概念に重きを置いていることが書かれていた。
秩序からは安全が、安全からは自由が、自由からは幸福が最大化される。
具体的なことはまだこれから学ばなければならないが、功利主義はトロッコ問題のような妥協案ではなく、むしろ1から幸福というものをいかに最大化すべきか、というベンサムの問題意識によって構築された法体系がもとになっている政治思想であると分かった。
つづく
公開日2023/11/17