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読書日記1204

柄谷行人『柄谷行人インタヴューズ2002-2013』講談社学芸文庫 (2014)

■株式会社講談社

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その他数冊

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日記

今日も引き続き、小室直樹の精神を受け継ぐ橋爪氏の本からいろいろと学んだ。

読書日記1202に追記というかたちで、まとめる。

・民主主義の本質について

“民主主義の本質は、ものごとを決定する手続きにある。手続きを重視するのは、なかみがどうでもよいという意味ではない。法律を作りかえることによって、どんどんよりよい制度に移行していってよろしい、ということを意味している。その意味で民主主義は、特定の価値にコミットするものではないのだ。” P43 (『橋爪健三郎の政治・経済学講義』)

政治システムのなかにシステムそのものを改良する制度が組み込まれていて、自分達の運命は自分達で決める、これが民主主義というものだという橋爪氏の説明は学びになった。

・人権について

“人権とは、一人の人間が、他の人間や、国家や、宗教や文明や、自分以外のあらゆるものから完全に独立していて、どんな他人にも指示されることなく、自分のことはすべて自分で決めていいという原則です。” P69 (『橋爪健三郎の政治・経済学講義』)

これはあくまで理想論だという。

それはそうだろう。自分のことを自分ですべて決める能力は大人でも難しいときがある。

裏を返せば、権利というものを持つ以上、自分ですべての責任を引き受ける覚悟を持たなければならないということを意味するだろう。

権利という言葉の重みを自分は感じた。

・・・

日本における政治不信の原因は、橋爪氏によれば「政治家はどれだけ公約を守ったかで評価されにくい」という点であった。

つまり、当選の回数やどれだけ経験を積んだかというものが重視されるというものであった。

自分はこれを読んで思ったのは、ベンサムが抽象性を嫌ったように、公約というものにも抽象的で曖昧なものがあり、そもそも守れたかどうかの判断がつきにくいのでは?と思った。

そして曖昧な言葉を好む日本人ならではの空気のせいかもしれないとも思われた。

白黒ハッキリさせる欧米から見れば日本人はハッキリしないと言われる。

国民性の問題なのか?制度の問題なのか?

歴史的に考えなければ分からないと思われた。

すると次に憲法の歴史や政教分離について語られた。

不平等条約は中学生に習ったが、自分は深いところまでは理解できていなかった。

日本は明らかに欧米から見下されていた。だから「急いで」憲法をつくったと橋爪氏は説明した。

あとで問題が出てこようとも、急いでつくることのメリットのほうが大きいと当時の政府は考えたのかもしれない。

かくして、小室直樹の「アノミー」が日本で蔓延ることとなった。

今日の政治不信は明治前後の歴史から必然的に導き出される答えだったのかもしれない。

本書のなかで創価学会にも触れられていた。

政治献金や財務の公開がないという点で橋爪氏は批判した。

そしてもうひとつは「集票マシーン」問題だ。

会員は選挙時に知り合いに電話をかけまくり票を集める。この点にも橋爪氏は問題を呈した。

情熱は必要だが、暴走すればむしろ有害になる。ゲーテにそのような言葉があったが、理性なき情熱は本当に有害でしかないように思う。

この情熱を良い方向に向かわせるにはどうすればいいのだろうか。

・・・

柄谷氏の文学論は読んでいて面白かった。

左翼の説教臭い知識人というイメージしかなかったが、この本では良いことを言っているように思えた。

日本では過去に人文書が爆発的に売れた時期が2回あったという。(1920年代、1960年代)

今はというと、部数的にはそこまで「売れていない」とは言えないという。

そして、柄谷氏は「人文書が売れなくても全く問題ない」という態度を示す。

柄谷氏は、人文書の売れ行きが良くなると廣松渉のような「速成知識人」とが増えると述べた。このあたりを意訳すれば、速成知識人が増えると人文書が売れなくなるという。柄谷氏はそれが悪いとは言っていない。

何かの終わりはつねに何かの「始まり」ということで、柄谷氏は現代思想が終わったとしても、その次に何かが出てくるとし、それを待っているという。

柄谷氏は自身の『近代文学の終わり』に関して言及し、差別というものが一定程度解消されたことによって(差異の消滅)文化的な活力が落ちているのだという。

いまの日本の貧しさは二重性があり、金銭的にも文化的にも貧しいのだという。

たしかに文学に関しては、この時代に偉大な古典が生まれるとは到底思えない点で共感する。

文化的な活力に関しては、いまいちピンと来なかった。

・・・

『ベンサムの言語論』は後半に入った。

ベンサムは法律が人々の幸福に大きく影響を与えると考えたが、それでも法の介入には限界を感じていたと書かれていた。

“法の適用範囲には次のような限界が存する。すなわち、まず第一に、功利性を尺度とする費用対効果の観点からみて不経済な法ーーつまり、「効果がない inefficacious」法や、「効果に比して費用が高すぎる unprofitable」法や、「他のより安価な手段で同じ効果が得られる needless」法ーーは、それが防止しようとする行為が紛れもなく社会の幸福量を減じる行為であったとしても、その行為を抑制する手段としてはこれを採用することができない (ibid:285-6) 。また第二に、法はすべての人間に普遍的に適用される規範であるため、法が介入しうる行為は、せいぜい同様の状況下でどんな人間によってなされようともほぼ確実に当人以外の他者の幸福量を減じる(すなわち「誠実」の義務に反する)行為だけである(ibid:290)。” P322 (『ベンサムの言語論』)

法で保護されているとはいえ、日常生活において法が介入する領域は限られている。

ベンサムはその限られた領域以外でいかに幸福の最大化の方向づけをすればいいのかを考え、次にミクロ的な政治、つまり倫理へと考察が移行する。

倫理を考えれば政治になり、政治を考えれば倫理になる。三島由紀夫の言っていたとおりであるし、この二つが独立しているとは到底思えない。

つづく

公開日2023/11/21

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