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読書日記1206

野本和幸『フレーゲ・ルネサンス:言語・論理・数学の哲学への招待』東京大学出版会 (2023)

■一般財団法人東京大学出版会

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その他数冊

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日記

『崩壊を加速させよ』を久しぶりに読んだ。

パラパラとページをめくると「社会がなぜクソなのかを考察せよ」という面白い題名が目に入った。

“社会を生きる以上は言語的に構築されたシステムの自己運動から逃れられない。” P321 (『崩壊を加速させよ』)

高島和哉『ベンサムの言語論』において明かされたのは、ベンサムが立てた理論は言葉の意味を「快楽」と「苦痛」へと還元させる試みであった。

社会がなぜクソなのか。

そのひとつには、宮台氏の言うように間違いなく言語の意味の不確定性にある。

橋爪大三郎『橋爪大三郎の政治・経済学講義』では、政治家が公約をどれだけ守ったかによって評価されないことが政治不信に繋がっていると書かれていた。

これは日本語という言語の曖昧性によるのか?それとも国民性なのか?慣習の問題なのか?

一ノ瀬正樹『確率と曖昧性の哲学』では、確率論から意味の不確定性を考察する刺激的な考察が展開されていた。

時間があればこの本を読み込みたい。この問題はもしかすれば数学や物理と直結できるのかもしれないと自分には思われた。

そして『フレーゲ・ルネサンス』を読もうと思った。

“システムは概念言語の二項対立を転轍機=リレイスイッチとする。だが概念言語の否定自体が概念言語の二項図式にハマっている。” P135  (『崩壊を加速させよ』)

脱構築について宮台氏は以上のようにコメントしている。

言葉を厳密に定義しようとする試み自体がそもそも間違っていて、言語の外に懸けるしかないのか?と思わせられた。

”思えばバタイユも革命を嫌った。革命が果たされても昨日とは違う別の問題に悩ませられると。” P328-9 (『崩壊を加速させよ』)

「政治を良くしようということだけを考えても無意味」であると自分には思われた。

宮台氏の「言葉の自動機械」は、人間の姿をしたロボット(=感情の劣化)だということであったが、では何故劣化したのか?

人間が物事をあまり考えなくなったからだ、本を読まなくなったからだ、というのは短絡すぎる。

謎は多い。

・・・

ガンディは、「サッティヤー(真理)」という言葉は「サット(実在)」が語源であると書いている。

存在について考えなければ、そもそも哲学なんてできないと池田晶子は言っているが、最近ようやくそう思えるようになってきたように感じる。

有るものは有る。無いものは無い。

『精神現象学』は分厚すぎて挫折したが、池田晶子が言うには、ヘーゲルもそう言っていたそうだ。

松岡正剛によれば、「分かる」というのは「物事を分ける」、つまり「有」と「無」を区別することが「理解」の本当の意味なのだろう。

小説や映画といった「フィクション」の副作用として、この「有」と「無」をごちゃまぜにしてしまう、ということがあると思う。

・・・

フレーゲは概念と数学を繋げる(概念記法)研究した。松岡正剛はフレーゲを絶賛していたが、自分もこの仕事を少し追ってみたくなった。

内容は重厚だが考えるヒントが散りばめられている。

自分は昔「なぜ 1+1=2 なのか」という問いなんかはクソどうでもいいと思っていたが、意味というもの、連続性というもの、1と2の関係性というものを「そこまでやるのか」というぐらいにフレーゲが考察している。

数理哲学から得られることは大きいと自分は見ている。

フレーゲは近年になって評価され始めているとされる。それは100年立って、AIの原点がこのフレーゲにあると分かってきたからなのだそうである。

本が他の本と緻密に繋がっている。

世界の見えかたが少しずつ変わってきていることを実感。

公開日2023/11/23

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