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読書日記1234

ジャンヌ・ベム『フローベール コンテンポラリーなまなざし』水声社 (2017)

■株式会社水声社

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その他数冊

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日記

『美/学』

シラーによる遊戯の美学についてメモ。

“シラーはカントから、自然(自然法則の世界)と自由(道徳法則の世界)との隔絶をいかに媒介するかという問題を受け継いだ。人間は一方では時間、空間のおいて制限され、変転を余儀なくされる個的存在である。しかし他方では自らのうちに有する、理想的人間(人間一般)という天分と使命へと開かれた存在でもある。要するに人間の生は単に物質的であることも極端に精神的であることもできないのであるが、これら相反する両性質が共存するという矛盾を調和させうるのが遊戯である。たとえば感性的な人間が形式に引き寄せられたり、逆に理性的な人間が質料に還元されるような、両衝動の均整を考えてみるといい。シラーはこの動的な均整においてのみ人間の完全性が実現されるとしている。そしてわたしたちを遊戯の状態へ運んでくれるのは美であるとする。なぜなら美のみが真や善と異なり、感覚の対象でありながら思弁的な対象でもありうるからである。それゆえシラーは美を「生命の形姿」と呼ぶ。” P92 (『美/学』)

つづいてプラトンの言葉をメモ。

“プラトン「数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくる」” P28 (『美/学』)

池田晶子も似たようなことを書いていた。

「狂気の宿らない学問などクズに等しい」

・・・

『フローベール コンテンポラリーなまざなし』

メモ

“彼が心がけたことは、語彙や文章でもって、読者の精神に心的イメージを呼び覚ますことだった。” P14 (『フローベール コンテンポラリーなまなざし』)

パウルクレーも似たようなことを書いていた。

“芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある” P162 (『造形思考 上』)

スーザン・ソンタグも似たようなことを書いていた。

“芸術=具体的なことを抽象的にし、抽象的なことを具体的にする” P158 (『こころは体につられて 上』)

日頃から抽象的なことは具体化し、具体的なものは抽象度を上げて考える。これが今の自分にとって必要だと感じている。

・・・

昨日は目的と手段についていろいろと考察したが、まとまりのない論理構造だったように思う。

もう一度考えた。

昨日の命題

「目的のなかに手段は存在し得ない」

自己目的化された目的であるならば、これは正しいように思われた。

目的がそのまま手段でもあるからである。

逆に、この場合手段が目的でもある。

手段と目的の同位体。

瞬間的に手段になり、目的になる。不確定的。

まさしくシュレーディンガーの猫。

つまり自己目的化(手段が、気づいたら目的になってしまっていた)はトートロジーという循環構造の迷路にハマることである。

自分は少し前に文学の自己目的性というものについて考えていきたいとこのブログに書いた。

それ自体が目的であること。それがシラーの芸術観であった。

文学がそれ自体目的であるというのは、どういうことか考えた。

ひとつの条件として、そういうものはこの自己目的化を回避した作品、営みであるはずだ。

カントの表現を借りれば、「無目的の合目的性」が美であるならば、自己目的的というものは美しくない。

そういう作品ではあってはならない。

「~のための」という概念を入り込む余地を残してはならない。

文学のための文学。

芸術のための芸術。

それはナンセンスである。

それ自体。カントの「物自体」。

どこか共通点を感じる。

つづく

公開日2023/12/21

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