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読書日記1237

        三島由紀夫『小説家の休暇 改版』新潮文庫 (2008)

■株式会社新潮社

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日記

三島由紀夫の本を読んでいると、どうやったらそこまで本を読めるのかというくらい、膨大な量の文学作品を読んでいることが分かる。

文学だけではなく、哲学でさえもその手中にある。(同時代人の哲学者としてジョルジュ・バタイユとサルトルの著書を読み込んでいることが分かる)

語彙力もすさまじく、意味が分からない。

裏を返せば、原典にせよ翻訳本にせよ、文学作品が日本には古くから多くあったということでもある。

執行草舟氏は、英語は話せるよりも読めるほうが良いと言っていたが、日本の文化水準の高さにはやはり明治の頃の人々の功績が隠れているように思われた。

メモ

ミューズ・・・詩神

パシオン・・・情熱

エートス・・・習慣

矜持(きょうじ)・・・自分の能力を信じていだく誇り。

対蹠的(たいせきてき)・・・たいしょうてき

アンタゴニズム・・・反発しあう原理

“ジュネは、猥雑で崇高で下劣と高貴に満ちている。” P156 (『小説家の休暇』)

“ジュネは主観的隠語で小説を綴った最初の男である。” P158(『小説家の休暇』)

フランスの評論家、アルベール・ティボーデ (1874-1936) の言葉

“「真の小説は小説に対して発する<<否>>によって始まる。・・・・・・『ドン・キホーテ』は小説の中で行われた小説の批評なのだ。」” P190-191 (『小説家の休暇』)

その他、小説に関する非常に抽象的な三島由紀夫の持論を読んだ。

ひとまず、三島由紀夫が日本の浪漫派をよく思っていないこと、日本の自然主義は自然主義ですらないと思っていることは分かった。

池田晶子は存在の内容は存在の形式と矛盾する、と言ったり、事実から価値は決して導かれないと書いていたが、小説はどうなのだろうか。

表現者である「人間=存在」は、小説に何を懸けるのだろうか。

存在の表象であるところの小説もまた、結局のところ小説の形式と袂を分かつのではないのだろうか。

こういうことを三島由紀夫はどう考えていたのか。くだならいだろうか。

公開日2023/12/24

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