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読書日記1248

ホルへ・ルイス・ボルヘス/オスバルド・フェラーリ『記憶の図書館ーボルヘス対話集成』国書刊行会 (2021)

■株式会社国書刊行会

公式HP:https://www.kokusho.co.jp/np/index.html

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その他数冊

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日記

『記憶の図書館』

メモ

“ボルヘス 芸術とは起こったりーー起こらなかったりーーするものです。作者によって左右されはしません。” P69 (『記憶の図書館』)

“ボルヘス 芸術の目的が美でなくて何だというのでしょう。” P69  (『記憶の図書館』)

ここで覚え書き

数学上の美しさと文学上の美しさは等しくなければならない。そう思えてならない。

文学にあたっては、趣味に付随する快と美に付随する快の区別がつけられるようにならないといけない。カント『判断力批判』を再読せよ。

ボルヘスの言葉

“ええ、もちろん詩の美しさは耳を通さねばなりません。彫刻の美しさは指ろ目を通さねばなりません。でもそれは手段であって、それ以上のものではありません。わたしたちは美を見ているのか、形態を通じて美がわたしたちに来るのか、わたしにはわかりません。” P70  (『記憶の図書館』)

ドストエフスキー「美において神と悪魔は戦う。その戦場は人の心だ」

イプセン「人生とは脳髄の洞窟の中での悪魔との戦いである。そして詩は己の最後の審判を祝う行為である」

三島由紀夫はフォルムさえあればいいんだ、と語っていたことを思い出した。

神(=自然)は音楽の素材を提供するが、音楽を与えはしない。

音楽というひとつの美の形式を生んだのはいうまでもなく人類の力であると自分には思われた。

しかし、自分はグランドピアノに隠れた神秘的な数式を見たときに、やはり神がかったものを感じ、人間の限界を痛感した。

y=320×(1/2)^n

上記は鍵盤の方程式とされる。シンプルなものに美はやどる。これを痛感。

”ボルヘス ええ、芸術は自然を模倣するものだという考えは常にありますが、ワイルドはそれは違う、自然が芸術を模倣するのだと言いました。……芸術はものを違う目で見ることを教えるという意味では、これは真実かもしれません。

フェラーリ たしかに。

ボルヘス つまり、多くの絵を見た人は、間違いなく自然を違う目で見るということです。

フェラーリ 優れた観察者になるのですね。” P602  (『記憶の図書館』)

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『ビブリオパイカ』

メモ

トマス・ピンチョン『重力の虹』の書評

“かなりの速読モードでも完読に丸一週間を費やしたが、本来の通読体験は、大げさではなしに評者の「読書」概念を変えた。それは、読書に関わるシナプス結合そのものを組み替えてしまうような、きわめて強烈な経験だった。そう、『重力の虹』は、「文学と脳」の関係性をあらためて問い直すための小説なのだ。” P410 (『ビブリオパイカ』)

昨日『重力の虹』を購入。

2ヶ月くらいかかりそうであるが、とりあえず上巻くらいは読み通したい。

つづく

公開日2023/12/31

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