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読書日記1251

ヴォフルガング・カイザー『言語芸術作品 第2版』法政大学出版局 (2015)

■一般財団法人 法政大学出版局

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その他数冊

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日記

『言語芸術作品 第2版』

メモ

“(・・・)フランス・ロマン主義の作品に最も著しいのであるが、(・・・)すなわち、文芸の存在様式および作品の芸術的質の高さは物語り得る内容そのものにあまり左右されないということである。” P66 (『言語芸術作品 第2版』)

(ゲーテの言葉)

“詩的な作品というものは測りがたい要素が多ければ多いほど、また悟性にとって不可解であればあるほど、それだけすぐれているということだ” P360 (『言語芸術作品 第2版』)

傾向文学・・・問題を変革しようという動機で書かれる文学

・・・

『リヒテンベルクの雑記帳』

メモ

“我々の感覚は、間違いなく、自然の見渡しきれない計画が持つ美を測る尺度たりえない。” P559 (『リヒテンベルクの雑記帳』)

“数学の研究で、その難解さに際して何より慰めになるのは、自分で熟考するより他人の熟考の成果を理解するほうがはるかに難しいという事実である。” P561 (『リヒテンベルクの雑記帳』)

“確かルソーだったと思うが、こう言ったーー両親しか知らない子供は両親のことも本当に知ってはいないのだ、と。この発想は多くの別の知識へ、いや純粋な本性でないあらゆるものへ適用可能である。化学しか知らないものは、それを本当には知らない。” P563 (『リヒテンベルクの雑記帳』)

・・・

ニーチェは、この世には事実ではなく解釈だけが存在すると言ったが、物事は主観でかたちづくられることは疑い無い。

例えば、月曜日は憂鬱だと感じる人もいれば、楽しみでしょうがない人もいる。

そこに客観的な事実というものは確かにない。

美的なものの享受も似ていて、気分によっては何もかも美しく思えないときがある。

共鳴という言葉がある。

不思議な現象である。

この原理が芸術にも働いているように思える。

美を感じるとき、そうでないときの心理状態がある。

そして、前者のほうが多いに越したことはないように思える。

世の中、なにもかも美しくなく、感動もない世界に存在する理由はあるだろうか。

美には秩序があり、完全性がある。

カントの考えた倫理学の体系と美の完全性には関係性がある。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/07/%e7%86%8a%e9%87%8e%e7%b4%94%e5%bd%a6%e3%80%8e%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%83%88-%e7%be%8e%e3%81%a8%e5%80%ab%e7%90%86%e3%81%a8%e3%81%ae%e3%81%af%e3%81%96%e3%81%be%e3%81%a7%e3%80%8f%e8%ac%9b%e8%ab%87%e7%a4%be/

   

芸術作品の使命のひとつとして、「自由への開き」を与えることにあるように思われた。

自由の法則を自らが示すことによって間接的に鑑賞者に秩序だった美の共鳴を与える。

文学もそうでなければならない。

公開日2024/1/2

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