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読書日記1259

              フッサール『デカルト的省察』岩波文庫 (2001)

■株式会社岩波書店

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その他数冊

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日記

『反解釈』

メモ

“歴史的進歩の観念を信じているくせに、新マルクス主義の批評家たちは、非社会主義の国々における現代文化の興味深い創造的な特質に対して、奇妙な鈍感ぶりを示してきた。一般に前衛的芸術に関心がないこと、質も意味もさまざまな現代芸術、現代生活の諸形式をひとまとめに告発すること(「疎外」「非人間化」「機械化」)、これらの点で、彼らの精神は、アーノルド、ラスキン、ブルクハルトなど、十九世紀に近代を批判した偉大な保守主義者たちとあまり変わらないことがわかる。” P152

・・・

『デカルト的省察』

読んでいるうちに、客観性や事実というものの欠陥について思いをめぐらせた。

『人が人を罰するということ』のなかで、責任とはなにか、刑罰とはなにか、といった、当たり前のように思われている言葉でさえも、掘り下げれば掘り下げるほど実は簡単には定義ができないことがわかった。

「小坂井敏晶は責任が虚構であることを『責任という虚構』のなかで主張した」

このことは事実である。

しかし、「責任とは虚構である」ということは事実であるかどうかは分からない。

行為としての事実と内容としての事実。

池田晶子風に言えば、存在の形式と存在の内容。

両者は相容れないと断言したのが池田晶子であった。

言葉の定義が完璧にできると仮説すると、全ては円環して繋がっているということなのだろうか、と自分は考えた。

「なんで?」「~だから」「それはなんで?」「~だから」「それはなんで?」と永遠に問いが繰り返されるのは、永遠に自転し続ける惑星と同じような原理によると自分には思われた。

言葉の意味の正しさは、その円環構造のなかによってのみ定まるのか?

客観性というものは意識という円環構造のなかによってのみ定まるのか?

フッサールの問題意識を共有したつもりになっているかもしれないが、この問いは重要である。

・・・

『人間ぎらい』

お世辞や嘘というものを拒絶し、悪い意味でどこまでも正直な人間の物語であった。

2/3ほど読み終えた。

古い訳なので、知らない漢字が多かった。

今日も悔しく、意味を調べた。

汲々たる(きゅうきゅうたる)・・・小さいことにとらわれるさま

契る(ちぎる)・・・将来のことを固く約束する

仮借(かしゃく)・・・大目にみること

滔々と(とうとうと)・・・どんどん流れるさま

僥倖(ぎょうこう)・・・偶然に得る幸せ 例)僥倖にも~

つづく

公開日2024/1/11

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