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読書日記1263

         池田晶子『新・考えるヒント』講談社 (2004)

■株式会社講談社

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日記

プラトンと池田晶子の共通点は、端的に「読みやすい」。

実感としては、プラトンの『国家』は中学生でも読み通せる。頑張れば小学5年生でも読めるはずである。そうとしか思えない。ところがどっこい、フッサール、ハイデガー、レヴィナスとなるとお手上げである。にもかかわらず「現代哲学は所詮プラトンの注釈でしかない」というのがホワイトヘッドの見方であった。

読んだことがないので分からないが、おそらく「プラトン入門」なる本も、逆にプラトンの本よりも読みにくいかもしれない。それくらいプラトンの本は読みやすかった。(プラトン全集となると、これは一概には言えない)

・・・

メモ

“プラトンの理想国、あんなものは実現不可能な理想である。逆に、プラトンの理想国、あれこそ実現されるべき理想である。そんなふうな仕方で揶揄されたり崇拝されたりするだろうことなど、この哲学者は知り抜いていた。現代においてそれは、全体主義の権化として非難されるか、逆に保守の源流として研究されることすらあると聞く。しかし、そんな後世の誤読の全類型は、当時において彼は完全に察知していたのだ。だからこそ彼は躊躇したのだ。そして逆に試みたのだ。理想は現実である。考えるならわかることだ。理想国はどこに存在すると君は思うか?” P37

目に見えるものが現実だと思う人間は、まさに「国家」という名詞により可視化され、それが現実にあるものだと思う。しかし国家は「社会」と同じで虚構のようなものである。取り出すことはできない。概念として存在するが物質としては存在しない。池田晶子はそういうものは信じないタチであった。言葉として存在することができるならば、なんでもやりたい放題である。「超越論的存在論」。それは存在するのか?同じである。

在るものと無いものを分ける作業、思索を経なければ単純に「国家は在る」と「信じる」だけになる。ただ信じるだけなら宗教と何も変わらない。しかし池田晶子はオウム真理教の信者と「国家は在る」と単純に信じる人間を同レベルで見ている。

だから後者の集まりをもってして「国家」と呼べば、それこそ無内容なのだから「絵空事でしょ」ということになる。理想国家ですと?絵空事はどっちよ、と言っているのが聞こえてくる。

公開日2024/1/14

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