■株式会社文藝春秋
公式HP:https://www.bunshun.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/bungeishunju
その他数冊
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日記
『そうしないことはありえたか?』
つづきを読み進めた。(読書日記1268に収録)
フランクファート型事例の検討を行った。
本書では二つの批判が紹介された。いずれも説得力のあるものであった。
昨日は時間がなかったので、二つ目の批判に追記という形でつづけたい。
・・・
批判2は、行為者が殺人を決断したとしても、非決定論であれば実行するとは限らないというものであった。
これを本書では「ジレンマ批判」と呼ぶ。
リバタリアニズムは非決定論と自由が両立すると考える、と著者は述べた。
決定論問題と政治思想が交差する面白い話であった。
そうなると、マイケル・サンデル氏は決定論寄りかもしれない。
・・・
今日はフランクファート型事例への、別の見方による批判が紹介された。
それが「自由の源泉性モデル」と呼ばれるものであった。
自由の源泉性モデル:行為者Sがする(した)行為Aが自由であるのは、行為Aの源泉が行為者S自身の内にある(あった)ときに限る。
つまり、チップを埋め込まれた行為者は、結果的には殺人という帰結にしか陥らないが、決意した以上は仕掛けとは関係なしに、彼は彼の意志で自由に行為を遂行したのであって、それゆえに自由の行為の責任を負う、という内容である。これがフランクファート型事例へのもうひとつの批判である。(自由の源泉性モデル)
著者は加えて述べる。
いまのところ自由の本質は現実におくか、代替可能性(=他行為可能性)におくかに分かれているが、これらは両立可能だという。
両立可能な例として、さらに「二階の意欲説」というものが挙げられた。
二階の意欲説
・一階の欲求 特定の行為への欲求
・二階の欲求 欲求についての欲求
抽象的なので具体例で示す。
ある男性は論文の締め切りが目前に迫っている。ところが物凄くビールが飲みたい。ビールを一度飲み始めると論文はパーになる。
一階の欲求は「ビールが飲みたい」「論文を完成させたい」と分類できる。
二階の欲求は「ビールの誘惑に負けてしまうのではなく、論文を完成させたいという欲求に導かれて行為したい」という欲求である、という具合に説明された。
哲学者フランクファートは、メタ的に物事を見る点が動物とそうでない存在を分ける、とした。
“フランクファートは、二階の意欲を形成する能力こそ、人間という存在の本質的な特徴であると考える。” P74
二階の意欲説を定式化:
行為者Sの行為Aが自由であるのは、AがSの持つ二階の意欲と調和しているとき、かつそのときに限る。
“行為者の行為が本当の意味で行為者自身によってなされたものであるかという問いは、行為者の行為が自身の二階の意欲と調和しているか否かを見ることで答えることができる。ここで「調和している」とは、行為者の行為を動機づける一階の欲求と、行為者の持つ二階の意欲によって言及される一階の欲求が一致していることを意味する。” P77
しかし、アルコール依存症の患者を見ると見えてくるのは、やめたいのにやめられない、だから「不本意ながら飲む」人と、やめられないのは分かっているから開き直って、ひたすらもう飲み続けたい、という「本意によって飲む」人というふたつのパターンがあるということだ。
ひとまずいったんここでストップしたい。
・・・
『原郷の森』
デュシャン、ピカソ、三島由紀夫など、様々な芸術関係の人との対話が始まる。
まだ読み始めたばかりであるが、この本は最初から面白い。
『岡本太郎と横尾忠則』という本をきっかけに、この人は面白いと感じるようになった。
・・・
『人間の運命』
二周目を読み終えた。
講演後の質疑応答では、多くの人に同じパターンが見受けられた。
「このまま~でも大丈夫でしょうか」
「~は問題ないでしょうか」
といった質問である。
この質問の背後には、「~でも損しないでしょうか」「~しても損しないでしょうか」のように、損得勘定が隠れている。執行草舟氏に一瞬で見抜かれていた。
近代合理主義によって様々なことが数量化された。
このことが当たり前すぎて、多くの人が日々無意識的に損得勘定で動いているということに気がついていないのかもしれないと感じた。これこそ宮台氏がよく言う「感情の劣化」ではないかと自分には思われた。
「主意主義ー主知主義」のどっちを大事にすべきか。
宮台真司氏は主意主義を重んじている。(ショーペンハウアーも主意主義者である)
調べると、スピノザとライプニッツは主知主義者のようである。
メモ
執行草舟「読書は問いを探すためにするものである」
公開日2024/1/21