■一般財団法人 法政大学出版局
公式HP:https://www.h-up.com
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/hosei_up?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
■株式会社文藝春秋
公式HP:https://www.bunshun.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/bungeishunju
■株式会社青土社
公式HP:http://www.seidosha.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/seidosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
つづきをよみすすめた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日記
『そうしないことはありえたか?』
昨日第二章まで全て読み終えた。
今日は第三章から読み進めた。
第三章のテーマは「決定論と自由は両立するか?」であった。
第二章までに他行為可能性モデルの検討を行った。
他行為可能性モデルとは、行為の選択肢が他にあるかどうかのことを指すのであった。
電車で通勤するか。車で通勤するか。会社によるが、人間には一定の目的に対して複数の選択肢が用意されている。だからこそ「自由」といえる。
この他行為可能性を真っ向から意義を唱えるのが「フランクファート型事例」であった。
これは思考実験をもとにした事例であった。
もともとは、自由について定義するには責任という概念と一緒に考えることで得られることが多い、という著者の考えからスタートしたのであった。
熟慮の末、修正された責任の条件は以下のように定義された。
修正版 PAP:行為者が彼の行為に直接的な責任を負うのは、彼が実際にしたのとは別の行為をすることができたときに限る。
フランクファート型事例はこの定義の矛盾を指摘したものであった。(読書日記に何回か書いたので内容は割愛)
また、現在も論争中ということであった。
今日はこの他行為可能性モデルの先(第三章)を読み進めた。
問い:他行為可能性モデルの下で理解される自由は決定論と両立するだろうか?
著者は決定論の定義を以下のようにおこなった。
定義:すべての出来事は、先行する出来事によって(必然的に)引き起こされている。
著者は「ライフゲーム」というプログラムになぞらえて、一回目の位置が定まれば二回目、三回目、四回目・・・と「決定論」的に定まる世界観を「法則的決定論」と読んだ。
エクセルの関数のようなもので、ようするに入力に対して出力が「決定」している状態のことを指す。
では世界が決定論的であるとはどういうことか。
著者は以下のように定義する。
世界が決定論的であるとは、次の二つがともに真であるということを意味する。
(i)任意の時点において、その時点での世界全体の状態を表現する命題が存在する。
(ii)PとQを、それぞれある任意の時点での世界全体を表現する命題とし、Lを自然法則を表現する命題とすると、P∧L( PかつL )はQを含意する。
含意の意味について
命題Aと命題A→Bがともに真ならば、命題Bも真である。このとき命題Aと命題A→Bは命題Bを含意する、と表現する。
以上までの論理によって、ヴァン・インワーゲンという人物が「帰結論証」によって、「自由と決定論は両立しない」ということを主張した。
“もし決定論が真であるならば、私たちの行為は遠い過去の出来事と自然法則からの帰結である。しかし私たちが生まれる前に起こったことは私たち次第ではなく、自然法則が何であるかも私たち次第ではない。したがって、過去と自然法則の帰結(私たちの行為を含む)は私たち次第ではない。” P102
これを読むと「私たち次第とはなんぞや」ということになる。
104ページに書かれていた。
“生まれる前に起こったことが私たち次第でないとは、私たちが生まれる前の出来事(あるいは、世界の状態)についての命題を、私たちの誰も偽にすることができない、ということを意味する。” P104
「~についての命題を、私たちの誰も偽にすることができない」は文章として分かりにくい。
それはつまりこういうことであった。
1.太郎は今朝、朝食に卵かけご飯を食べないことができた
2.太郎は、「太郎は今朝、朝食に卵かけご飯をたべた」という命題を偽にすることができた
ややこしい言い回しであるが、1と2は同じことをさしている。
これはつまり、私たちの手によって偽にされるような命題は、そもそも自然法則ではないという意味である。
以上から「無力さの移行原理」が導かれる。
無力さの移行原理:私たちが真な命題Pを偽にすることができず、かつ、命題Qが命題Pの論理的帰結であるならば、「私たちは命題Qを偽にすることができない」という主張が導かれる。
この主張をひっくり返すには「偽にできる」と主張するしかない。
この主の理論を現代では「古典両立論」と呼ぶそうである。
もう少し先を読み進めると、「できるの非両立論的解釈」だの、「できるの条件文分析」だのと、ややこしい専門用語が増えてきたので一旦ストップした。
・・・
『原郷の森』
メモ
“今の芸術がつまらないのは引用、盗用が一般化していて、あなたはそこから来ているんですよ。三島さん、黒澤さんは文体の発明家ですよ” P71
“アンチロマンはセンチメンタリズムの排除を目的として、相対的にセンチメンタルになってしまった” P74
絵画の非論理性について
“つまり宗教も哲学も失ってしまった芸術家たちが、代わりとして求めたのが、目に見える記号でしかない。そしてその記号の読解をあたかも形而上であるかのようにしていることに、私は気づいた” P88
・・・
『レヴィナス著作集 Ⅰ 』
メモ
レヴィナス「幸福とはーー実存することの喜び」
読んで感じたこと
アレゴリーとは感性的秩序と知性的秩序の仲介人
損得感情・・・生への倒錯した愛
つづく
公開日2024/1/23