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つづきをよみすすめた。(読書日記1282に収録)
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日記
少しずつ、弱火でじっくりのスタイルで読み進めた。
今日は古代ユダヤ教の話から読んだ。
小室直樹はマックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』の内容に沿って解説した。
まず、イスラエル人の日常は苦難の連続であったという。
ウェーバーは彼らを「賤民 Pariavolk」と呼んだ。
イスラエル人は、これを逆手にとったという。
普通、神様というのは「幸福を与える存在」というイメージがある。(だから祈ったりする)
だがイスラエル人は敢えて「苦難を与える、理不尽な存在」と位置付けた。
古代イスラエルの人たちにとっては、苦難こそが彼らの日常であった” P150
“どんな真面目であろうと、神様は平気で不幸を与える” P150
敢えて神は苦難を与えることを選んだと、それは我々が「選ばれた民」だからだと、そのような解釈をすることによって連帯感が生まれ、アイデンティティが形成される。そして苦難に意味付けがされる。そういうことを小室直樹は語った。
小室直樹は、ユダヤ教における「救済」の意味は、「世界の主になる」だとした。
そのためには規範(戒律)を守らなければならない。
苦難が訪れても最後まで乗り越えよ、しからば最後には「世界の主」となろう。そういうものらしい。
キリストは信じてさえいれば戒律を厳密には守らなくてもよいとされる。
それはパウロが」所詮、人間にはそんな力はないのだから」と考えた結論だというのは昨日学んだ。
ここがユダヤ教とキリスト教の規範に対する構えが大きく分かれるところだ。
“イエスはユダヤ教の律法を否定し、そこから新しい宗教を作り上げた。それがキリスト教である。” P153
メモ
アブラハム⇒イスラエルの民の先祖
・・・
『<世界>はそもそもデタラメである』
『オールド・ボーイ』に関する批評を読んだ。
メモ
“人の命を救うための誘拐に発する復讐が復讐を招く。まさに「世の摂理は人知を超える」。誰にも悪意がないのに、復讐連鎖が一巡した暁には全員が死滅してしまう。このモチーフだけでも十分ギリシア悲劇を髣髴させる。” P296
≒ ソポクレス『オイディプス王』
“俗悪な理不尽を軽妙に描く。そこには「俗悪とは峻別された聖性」を追求する生真面目さを嗤おうとするオペラ的な意思が働いている。” P298
「オペラーコンサート」≒「カトリックープロテスタント」≒「貴族主義ー市民主義」≒「ルネサンス的前近代ー宗教改革的近代」
・・・
『新編 不穏の書、断章』
メモ
“森羅万象の唯一の隠された意味は、いかなる隠れた意味もないということだ。” P51
“自然は全体のない部分からなっている。おそらくこれこそが自然の神秘なのだ。” P51
“本質的なことは見ることを学ぶことだ 考えずに見ることを 見ているときに見ることを学ぶことだ 見ているときに考えたり 考えているときに見たりしないで” P53
公開日2024/2/5