閉じる

読書日記1281

      島田裕巳『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社 (2022)

■株式会社晶文社

公式HP:https://www.shobunsha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://x.com/shobunsha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

     小室直樹『日本人のためのイスラム原論 新装版』集英社インターナショナル (2023)

■株式会社集英社

公式HP:https://www.shueisha.co.jp/

公式X(集英社新書編集部)(旧 Twitter):https://twitter.com/Shueishashinsho?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日記

本を読みたいという意欲、活力が止まらない一日であった。

平日は仕事なので、今日は充実感でいっぱいの一日であった。

最後の作業として、今日一日の収穫をこの日記にまとめあげることが残っている。

それを今から行っていきたい。

今日は島田氏、小室直樹、内村鑑三の本を同時並行に読み進めた。

似たようなジャンルは3冊同時に読め、といった本があるが、たしかに効果はあるように思われた。

地道に勉強していく場合、プロットを打ち込む作業がどうしても必要になる。

同時に三冊読むことによって全体像の把握というものが、単体の場合と比べて早いように思われた。

例えば『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』に書かれていない情報が小室直樹の本には多く書かれているが、小室直樹の本に書かれていないことが前者に書かれている。

「コーランはイスラム教の聖典のことだよ」と言われても「だからなに?」でしかない。

歴史の流れと接続させることによって、言い換えれば文脈とつなげて理解したほうが明らかに面白いし、記憶にも残りやすい。

・・・

『日本人のためのイスラム原論 新装版』

久しぶりに小室直樹の本を読むことにした。

そもそもなぜイスラム教なのか。

少し前に自分はハンナ・アーレントの生涯を描いた本を読んだ。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/04/%e3%82%b1%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%a0%e3%82%b9%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%80%8e%e3%83%8f%e3%83%b3%e3%83%8a%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%83%88%e3%80%81/

   

生きるというのは考えるということ、この言葉にまず感銘を受けた。

考えること。

そして、著述家池田晶子も全く同じことを言っていることについて感想のなかで書いた。

前者のアーレントは政治について考え抜き、後者の池田晶子は善く生きる、ということを考えつづけた。

池田晶子は政治について全く興味を示さなかった。

自分には、哲学者という異質な存在でさえも、時代と環境には影響を大きく受けると思われた。

池田晶子は信仰を「思考停止」とみなしていたことに自分は部分的に共鳴できなかった。

池田晶子の絶対主義的な態度、思考には、なんとなく傲慢さが見えた。

また、アーレントと同じ講堂でハイデガーの講義を受けていたレヴィナスについて自分はもう少し学びたいと思った。

         レヴィナス協会編『レヴィナス読本』法政大学出版局 (2022)

こちらの本はあまり読み進んでいないが、レヴィナスの思考がタルムードによってかたちづくられていることを知り、もはや哲学史は宗教や神学の知識なしには理解不可能だと実感した。

実際、レヴィナスの本を読んでも右から左に流れるだけであった。

また、ユダヤ人の卓越性には日頃から疑問を持っていた。

哲学者や科学者には明らかにユダヤ人が多い。

歴史的に迫害を受け続けながらも、それに負けず逞しく生きている。

自分はそこから学ぶべきことが沢山あるのではないかと思っていた。

以上の背景もあり、ユダヤ教に限らず、ユダヤ教に起源をもつイスラム教とキリスト教についてもいろいろと知りたくなった。

先週から少しずつ宗教史の学び直しを始めた。

最後に小室直樹の本を読んでから約1年という月日が流れていた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/13/%e5%b0%8f%e5%ae%a4%e7%9b%b4%e6%a8%b9%e3%80%8e%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ae%e6%86%b2%e6%b3%95%e5%8e%9f%e8%ab%96%e3%80%8f%e9%9b%86%e8%8b%b1%e7%a4%be%e3%82%a4%e3%83%b3/

   

・・・

メモ

主知主義・・・神は自らの計画を計画通りに実行する。

主意主義・・・神は傍若無人でやりたいことをやる。

・・・

小室直樹は問う。

なぜイスラム教は日本で定着しなかったのか?

答えは「日本人は規範が嫌いだから」であったが、いまいちピンとこない。

“しかし、重ねて言うが、日本人ほど宗教における規範を拒否する民族は、世界中に見当たらない。” P72

小室直樹の本の凄さは、比較しながら差異を浮かび上がらせて本質を与えることにある。

つまり、仏教とキリスト教が日本に定着している理由を問い、そのあとにイスラム教が定着しない理由を探る。

今日の段階ではさすがに多くは吸収できなかったが、最低限のことは吸収できたように思う。

まず仏教については、大昔から日本に伝わっていたようである。鑑真は有名だが、彼は正しい戒律を日本に伝えに行ったようである。小室直樹によれば、鑑真は歓迎されたようである。この頃から仏教は定着したと言える。

キリスト教はイエズス会のザビエル。これもたしか小学生くらいで習った。

たしかに振り返れば日本史ではイスラム教の話が出てこない。

まず地理的な要因。日本列島はユーラシア大陸とつながっていない。

それもあるかもしれないが、ヒントは布教にあった。

イスラム教は布教をしないとされる。

つまり、自分たちからわざわざ広めにいったりはしない。だから地理的に考えて、日本には定着し得なかった。日本人は規範が嫌い、という点については今日の段階では深くは理解できなかった。

加えて、面白いことが分かった。

キリストの図像を踏むこととよきクリスチャンであることは両立するということであった。

小室直樹によれば、キリスト教は「信仰のみ」でOKということである。

キリスト教は祈ることは義務でもなんでもない。

小室直樹によれば、パウロは人間の分際が律法を守れるはずはないと考えた。

“すなわち、律法を守れないことで、人間は自分が原罪を持った存在であることを思い知る。いくら努力しても、自分の力では救われることができないことを痛感する。だから、そこではじめて神を心の底から信じようと考える。神が律法を与えたのは、まさにそのためではないか……。” P64

イスラム教は行動で示さなければならない。実践と信仰がセット。

比較することで様々なことが見えてくる。

改めて「宗教社会学」の力を実感。

イスラム教は法体系のレベルで教えに忠実。キリスト教はそうではない。

本日はこの程度であれば理解できた。

・・・

メモ

タルムード・・・律法学者たちが作り上げた規範。昔から伝わる口伝「ミシュナ」をまとめ、それらを学者が議論と解釈を加えてまとめたもの

タルムードで解決できない場合⇒バライタ⇒メギラ⇒トセフタ

イスラム法の基本⇒コーラン

コーランで解決できない⇒スンナ⇒イジュマー⇒キアース

・コーランとは

“もっと正確に言うならば、アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに伝えた言葉をまとめたのがコーランである。” P39

・旧約聖書について

“キリスト教でもイスラム教でも、旧約聖書に書かれていることはすべて真実であると見なす。” P42

・・・

小室直樹は仏教が哲学用語でもある「因果律」に依拠しているため、「科学に近い」と語る。

“「法」の根底をなしているのは、因果律である。原因は結果をもたらす。すべての現象(結果)には、その元となる原因がある。これが因果律である。仏教ではこの因果律がまことに徹底していて、一つの例外がない。” P78

“仏教は思想ではない。それはむしろ、科学に近い。” P75

前々回の記事では仏教とキリスト教は似ている点が多いと書いた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/08/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981279/

   

今日もひとつ発見した。

仏教の「末法思想」がキリスト教の「終末思想」に近いという点であった。

末法思想・・・仏教の教えがなくなり修行するものがいなくなるという考え。1052年に既に末法思想の段階に入ったとされる。

・・・

『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』

内村鑑三は強制的に信者にされたと書いていた。

タイトルは「いかにして」なので、「何故」ではない。

そのため、なぜキリスト教になったのか?ということを主観的には語っていない。

強制されて入信させられてはたまったものではないだろうと、そう思いながら読み進めていったが、内村鑑三は神はひとつという考えに安堵したと語った。

日本のアニミズムのゆえなのか分かりかねたが、神がいろいろなところに存在すると疲れるのだという。だから神社を通るときには祈らなければならなかったが、キリストの教えでそれが払拭できたと書かれていた。

内村鑑三は代々武士の家系であり、祖父は戦争がないことに不満を抱いていたという。

昨日か忘れたが、小林秀雄と坂口安吾は戦争に美と崇高さを感じたという件について自分は感想を書いた。

やはり数百年前の日本人の死生観は今とはかけ離れているのだろうか?難しい問いである。

キリスト教徒になり父親は反発したことが書かれていたが、のちに父親から感謝されるまでに至ったという。

ますますキリスト教がよく分からなくなってきた。

小室直樹の話とつながらない。

島田裕巳氏の本に関しては、いまいち吸収できなかった。

のちに点同士が繋がると幸いである。

ひとつだけ頭の片隅にいれたことは、ハンチントンは『文明の衝突』で日本をひとつの文明として位置付けているということである。(地理的な問題なのか?)

・・・

『新編 不穏の書、断章』

メモ

“芸術において、重要なことは表現すること。表現されたもの自体はつまらぬものだ。” P29

“わたしとは、私と私自身とのあいだのこの間である。” P40

“なぜ芸術は美しいのか。それが無用だからだ。なぜ人生は醜いのか。それが目的や目標や利害を持つからだ。実生活のあらゆる道は、ある点から別の点に赴くためのものだ。” P319

  

公開日2024/2/3

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free