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読書日記1282

    小室直樹『日本人のためのイスラム原論 新装版』集英社インターナショナル (2023)

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つづきをよみすすめた。(読書日記1281に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/09/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981281/

   

小室直樹は非常に論理的であり、イスラム教だけの説明を行うよりも、他の宗教と比較することで差異を明確にする。そのため読者はイスラム教の理解にとどまらず、キリスト教、ユダヤ教、仏教の理解も得られる。一石二鳥の良く考えられた本である。

今日もいろいろと吸収することができた。

・・・

儒教について

儒教は孔子が始めたとされる。

孔子は四聖人に含まれる。孔子、釈迦、キリスト、ソクラテス。

儒教は日本と大いに関係がある。

なぜならば、日本でよく読まれる『論語』は儒教の教典だとされるからである。

渋沢栄一が論語を読み、経営に生かしたというのはよく知られているが、小室直樹によれば論語は儒教の教典だとされる。しかし論語はサブテキストのようなものであり、武士の教養書として機能した。

儒教は「五経」が重要だとされる。

ではなぜ論語だけがよく読まれたのか?

それは朱子学と関係があるという。

“この論語の地位を向上させたのが、宋代に現れた朱子学である。” P104

また、七夕や十二支は「道教」にルーツをもつとされる。

ここまででなんとなく分かってくるのは、日本は様々な宗教のエッセンスをつまむように吸収しているというところである。

クリスマスやバレンタインデーはキリストに関係があり、七夕は道教、神社は仏教と、いろんな宗教がシチューのように混ざってできたのが今の日本の空気である。

山本七平は日本教と呼んでいる。

・・・

20世紀における社会学者の重鎮、マックス・ウェーバーは行動の様式を「エトス」と呼んだ。

小室直樹は日本人のエトスは「武士道」だとした。

“「宗教教育がない日本で何が道徳を教えているのか」とのベルギーの法学博士の問い対する新渡戸稲造博士の答えが本書である。” P109 

109ページには各宗教のエトスについてまとめられている。

ユダヤ教とイスラム教は豚を食べてはいけないと教えている。

小室直樹曰く、日本は仏教の影響で江戸時代には四つ足の獣は食べてはいけないという風習があったみたいであるが、明治になると西洋化でコロッと変わってしまったようである。

食習慣を各宗教と比較することで日本における食習慣の論理的欠陥が見えてくる。

・どこまでも曖昧な日本

“ただし、日本教の場合、その道徳律は絶対にイスラム仏教のような規範の形をとらない。ここが肝心なところである。イスラム教やユダヤ教の規範の場合は、黒か白か、つまり、守ったか守らないかが厳密に判定される。その中間のグレー・ゾーンはありえない。仏教の戒律もまた外面的行動を縛るのであって、これを破れば、ただちにサンガから追い出された。これに対して、日本ではいちおうのルールはあっても、その定義はあくまでも曖昧である。どこからが善くて、どこから悪いという線引きができない。そのことが端的に現れているのが、日本人の食物規制である。” P109-110 

これを踏まえて小室直樹はまとめる。

“規範に合わせて人間の行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範が変わる。これぞ「日本教」のエトスであり、これが日本人なのである。” P115

・・・

メモ

仏教の始まり⇒最澄

“最澄の円戒に始まって、天台本覚論の完成、さらには法然、親鸞、日蓮による仏教革命・・・・・・これらのプロセスによって、日本の仏教は、世界中の他のどの仏教とも違う宗教になった。” P117

ノートルダム⇒「われらが貴婦人」=聖母マリア、の意。

イエスは人間なのかどうかで問題が起こった。そして「三位一体」というものがうまれた。

しかしイスラム教はこれを認めていない。

“イスラム教では、三位一体などという、こじつけめいた教説を認めない。” P122

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次にピサロのインカ帝国の征服について語られた。

宣教師ラス・カサスはそのあまりのむごさを目の当たりにし、記録に残して内部告発のようなことを行った。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/05/%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%ab%e3%82%b5%e3%82%b9%e3%80%8e%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%81%ae%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%81%ae%e7%b0%a1/

   

日本人からすれば、当時のキリストは悪魔としてしか映らない。

なにが博愛だ、と感じるのは当たり前だということを踏まえ、小室直樹はキリストの行動原理を語った。

結論から書けば、異教徒の迫害と博愛の精神は両立するとされる。

あくまで旧約聖書の論理に沿えば、という話ではそうなるみたいである。

“神を信じない異教徒は、もはや人間ではない。その実例は旧約聖書の中に示されているではないか。” P139

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教でなぜここまで違うのか。

小室直樹によれば、キリスト教の規範の最上位は博愛(アガペー)の精神なのだという。

あくまで「仲間(キリスト教徒)だけを愛せよ」という、一神教の原理がみえた。

・・・

話はパレスチナ問題へと移った。

自分なりに少しだけ理解したつもりではあるが、聖書を読み込まないと本質は掴めない気がしてしまった。

忘れないうちに、とりあえずメモしたことをここに書いていきたい。

イスラエル人は大昔、エジプトの奴隷であった。

そこで神はモーセという男をエジプト王ファラオに遣わす。

モーセ「イスラエル人を解放してくれませんか」

ファラオ「無理っす」

モーセは神の力を借りてファラオに「分かりました」と折れさせる。

しかしファラオの気が変わり、軍隊を派遣した。

そしてクライマックスは神が海を二つに割ってイスラエル人を救った。

というのが小説や映画『エクソダス』のあらすじになる。

しかしその後イスラエル人は神から与えられた土地、カナン(=パレスチナ)を目指すが、先住民がいて、「帰ってください」と門前払い。

神はそもそもイスラエル人に土地(パレスチナ)を与えた。

イスラエル人は結果的に、カナン(パレスチナ)を暴力の力によって占拠する。

イスラエル人からすれば、神からのお墨付きでパレスチナに住む権利があるわけである。

パレスチナ人からすれば、勝手に侵略されたも同然である。

しかし事態はもっと恐らく複雑であろうから、今日はひとまずここでストップ。

・・・

以上、日本人の柔軟さ、悪く言えば曖昧さというものが垣間見えた。

人間の心理というものは想像以上に複雑なものだと思われる。

行動(結果)には原因がある。

これを突き詰めるためには、歴史や宗教史の知見を通過させなければならない。

だから政治家の行動原理について、加えて日本経済の低迷の原因について考察するには膨大な資料や知識が必要だということは理解できた。

心理学部の関係者には申し訳ないが、社会学や歴史、神学など広く物事を見ていくと、いかに心理学という学問の領域が狭いのか、ということがみえてくると思うのである。

ミルグラムの服従実験ひとつとっても、深層心理とエトスが無関係だと自分には思えない。

社会心理学になれば比例してエトスとの相関性が問われる。

ひとつの考察の材料として、心理学部は平行しながら社会全体を見るべきなのである。

これは心理学部に限らず、行動経済学や政治学にもある程度当てはまると自分は考える。

日本では実用的な知識が重宝されている。

スタバに行けば資格の勉強をしている人をよく見かける。

ただ、超長期的なことを考えると、それは本当に意味があるのかと自分は問いたい。

学生は今一度、今の日本に足りないものは何かという問いを一度は限界まで問うべきだ。

公開日2024/2/4

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