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つづきをよみおえた。(読書日記1309に収録)
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感想
昔、Twitterをやっていたらとある歴史学の専門家が「どこかの社長が出している歴史の本はまったくけしからん」といったニュアンスのツイートをしていた。
たまにそういった批判をする専門家は、いなくはない。
そして今日、その歴史学の専門家の言っていたことも分からなくはないかな、と思うに至った。
たしかに『大衆の反逆』を手短に要約している作家は大勢いる。別に彼らは間違ったことは書いていない。
ただ、簡潔すぎて逆に、要約本が何か違ったメッセージをその読者に与えかねない危険性を自分はなんとなく感じた。本書はただ単に「大衆は愚かで危険だ」と批判するだけのものではないことは明らかに分かる。
エーリッヒ・フロムに『自由からの逃走』という本があるが、自分は『大衆の反逆』のタイトルが『義務からの逃走』でもいいんじゃないか、とすら思えた。(専門家からすればナンセンスと言われるかもしれないが、自分は本当にそう思えた)
カントが言っている。
「こんなに短くなかったら、もっと短かったろうに」(『純粋理性批判』序文)
・・・
『大衆の反逆』の批判対象は個人から国家の制度に至るまで、その射程範囲が広く、全体的には「政治批判」の様相を呈しているように思えた。
そのため、本当は何について怒りを覚え、何に向けて批判をしているのか曖昧になっているようにも見えた。
ゆえに、オルテガの真意についてはたった一周の読書では分かりかねる。
本人も批判の対象が広くなっていくにつれて、「今ここでは論じないが」といった決まり文句のようなものを何回も挟んでいた。
・・・
メモ
“世論が人間社会に支配という現象を生み出す基本的な力であるという事実は、人間と同じくらいに古く恒久不滅の事実なのである。” P182
オルテガ「自然は真空を忌み嫌う」⇒社会が分裂状態にあっては、支配する権力は発生し得ない。
オルテガの堕落論
“堕落とは一つの変則状態、つまり、それを受け入れている間はつねに不当なものに思えるような状態を、慣習的・既定的状態として受け入れることに他ならない。” P202
(堕落を指して)”このメカニズムは、「一つの嘘は百の嘘を生む」という格言が看破しているメカニズムに似ている。” P202
オルテガ「支配者の不在は必然的に能力と才能の消滅につながる」
“支配への夢と、それが鼓舞する責任感のもたらす規律のみが西欧の魂を引きしめておくことができるのである。” P207
オルテガ「(個々の人間の)潜在能力の大きさと政治機構の大きさとのアンバランスが経済に致命的な障壁をもたらしている」
⇒オルテガは214項で、アメリカの車はヨーロッパ的で、技術力はヨーロッパもアメリカも対して変わらなく、市場の合理性によってアメリカのほうが優位に立っている、と述べている。それはある種の嫉妬であり、オルテガは嘆いているように自分にはみえた。
オルテガが認めた二人の古代人
“いわゆる明晰な頭脳といいうる人間は、全古代史を通じて二人しか存在しなかった。それは、テミストクレスとシーザーで、ともに政治家である。政治家というものは、著名な者までを含めて、まさに愚鈍なるゆえに政治家たりうることを考えれば、この事実はまさに驚異である。” P224
オルテガによる選挙制度批判
“デモクラシーの健全さは、それがどのようなタイプのものであっても、またどのような段階のものであっても、一に選挙という貧弱な技術的操作にかかわっている。それ以外のものはすべて二次的な意味しかもっていない。選挙制度が適格で現実に合ったものであれば、すべてがうまく行くが、そうでなければ、それ以外のことがいかにうまくいってもだめなのである。” P226-227
自分はこの文章を読み、現在の日本と重ねて考えてみた。
営利行為と政治の因果関係は分からないが、相関関係は必ずあると自分は考えた。
政治がどんなに悪いとしても、民間企業がしっかりしていれば社会なんていくらでもよくなるのでは、と考えることもできるが、事はそう単純ではないのかもしれない。
しかしこのような問題は、扱うには変数が多すぎるのでかなり難しいと思われた。
・・・
オルテガの「国民」という概念に対する発言
“血と言語を国民性の基準とみなすことに世人が固執しているのは真に奇妙といわねばならない。わたしは、そうした態度の中に、彼らの無知と同様に忘恩を見る。” P239
オルテガ「紀元前四世紀のギリシア = 十一世紀のスペイン = 十九世紀のヨーロッパ」
“西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大なる大陸国家に発展してゆくことであろう。” P255
“今日推賞され、誇示され、試みられ、賞賛されているいっさいのことを信じない人がいたら、その人は当をえているといえるだろう。それらすべては、あっという間に消え去ってしまうだろうからである。” P259
オルテガのナショナリズムに対する発言
“ナショナリズムとはつねに国民国家形成の原理に逆行する衝動である。” P262
オルテガは、ナショナリズムを「排他的」、国民国家主義を「包含的」と述べた。
オルテガの共産主義に関する発言
“つまり、ヨーロッパ人は、共産主義的組織の中に人間としての幸福の増大を認めないのである。” P264
個人的に、本書のなかで一番のオルテガの格言
“モラルとは本質的に何かへの服従の感情であり、奉仕と義務の自覚である。” P274
・・・
ついでに、加谷珪一『お金は「教養」で儲けなさい』(朝日文庫)も読破したのでちょっとだけ感想を。
経営者は、何かにこだわり続ける力、使命感、義務感といった、なんらかの信念を持っているということが書かれていた。
(勿論、例外的な人も多数いるかもしれないが)
当たり前ではあるが、学問も実務も楽な道は決してない。
ではなぜ「教養」なのか。
それは高学歴の大学、とくに慶應義塾大学出身の経営者が多いことから察することができる。
こんなことを敢えて書く必要もないが、彼らの底力は、やはり幅広い視野で物事を考える力、推論を立てて先取りする力、直感力といったものは教養(とくに数学など)によって支えられていると実感。
リベラルアーツとは「リベラル(自由)」+「アート( 芸術 ≒ 術 )」の意味で、「自由に生きる術」だと自分は考えた。
本は役には立たないが人生を豊かにする、とはYoutuberのラファエル『無一文からのドリーム』に書いてあったことだが、本は自由に生きるためには人間に必要だと改めて痛感。
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読書日記1310
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つづきをよみすすめた。
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日記
美学に関心が戻り始めた。
『大衆の反逆』を読み終えたので次は『崇高と美の観念の起源』を精読していくことにした。
美学は奥が深いのでどこか惹かれるところがある。
高校生に戻ることができれば美学科を受験したいくらいだ。
・・・
『崇高と美の観念の起源』
趣味について
“しかし揚足取りの口実をすべて封ずるために敢えて一言するが、私がこの趣味という言葉で意味するものはただ想像力の作品ないしは優雅な芸術作品によって触発されてそれに関する判断を作り上げるところの、心の一つ又はそれ以上の能力のことに過ぎぬということである。” P17
バークは趣味にはなんらかの「法則」があるとみている
“(・・・)逆説的に響くかもしれないが、私はこの種の趣味に関する原理が必ず存在すると信ずる者である。” P18
“外的対象とかかわる人間の自然的力能は、感覚、想像力および判断力の三つですべて尽くされるはずである。” P18
想像力について
“しかし想像力のこの力能は絶対的に新しい要素を生み出すことはできないのであって、あくまでも自らが感覚から受け入れた諸感覚の配列を変更しうるだけであることに注意せねばならない。” P22
ロック「判断力の任務とは差異の発見にある」
つづく
・・・
『明日、ぼくは店から棚からヘイト本を外せるだろうか』
自分は「明らかにこれは差別されている」といった類いの経験をしていないため、マイノリティ側に立つことはできないが、本書はいろいろと考えさせられる本であった。
しかしなにかと規制が息苦しさを生み出す今、ヘイト本に規制をかけるのはまずいと自分は読む前に考えた。
規制(または安全)よりも自由に価値を置かなければ長期的に必ず不利益を被ると自分には思われた。
安心、安全が極端になった世界がジョージ・オーウェルのような管理社会ではないのか。
動物園は安全だが、人間が動物園のなかで幸せに暮らせるのか。
安全と幸福は必ずしも両立しない。
では自由放任でいいのかというとそうではない。
このジレンマが本書のメインテーマとなっているが、自分は著者の意見がまっすぐなところに惹かれ、読んでいていろいろと参考になった。
売れる本は売る。これが書店の営利行為の論理として当然であって、この原理を潰せば文化全体が衰退する。
どうしもて規制をかけなければならないのであれば、自転車の補助輪のように、規制が緩和されることを前提にかければいい。
一度規制が始まればなかなか緩和されることはないので、規制をかける以上、熟議というプロセスを通さなければならない。
それは理想論だという声がある。
この点はたしかにそこまで単純な話ではないかもしれない。
自分は民度を問いたい。
ヘイト本は根拠がなかったり、薄かったりする。
いわゆる歴史修正主義だの、教条主義だのが蔓延る世界である。
キング牧師を思い出す。ガンディーを思い出す。
知性は常に勝利してきた。
暴力に暴力は明らかにナンセンスある。
これは深いところでは、知性の問題、教育の問題だと自分には思われた。
これについて書いていくとかなり長くなるので今日は割愛したい。
『大衆の反逆』では学問への敬意が失われているといったニュアンスのことが書かれていたが、このヘイト問題も歴史を軽視しているという点ではやはり彼ら(ヘイトに便乗する人間)も「大衆」であることは間違いない。
仲正教授が作品社のニーチェ入門講義の本で良いことを言っていた。
“彼らだけでなく、ニーチェの名で語ろうとする人は全員ずれているでしょう。人を批判するための思想になっては駄目です。そういうことをしている教養人が司祭、道化、予言者、そして弟子を集めて教団を作っているツァラトゥストラ自身を、ツァラトゥストラは徹底的に皮肉っているわけです。自分自身の価値観や立場を温存し、正当化するために、ニーチェの名を出すのはただの権威主義です。” P189
・・・
『美学の練習』
真善美について書くとまたコメントが荒れるので少し躊躇ってしまうが、この本はなかなか参考になることが詰まっている。
ある命題が「真」かどうかは知性が判定する。よって「真」は知性と対応する。
ある物事、行為が「善」かどうかは「理性」が判定する。よって「善」は理性と対応する。
ある物事が「美」かどうかは「感性」が判定する。よって「美」は感性と対応する。
ただ無条件に当てはまるわけではないようである。
というのも、「美」の尺度は時代によって変わり得るし、物理学などで顕著だが、科学的な真理もやはりある程度時代に左右されてしまう。
プラトンはそのような「可変生」を認めず「イデア」の一択であった。
どちらが説得力あるだろうか。
また、真、善、美の「判定基準」に関する章も読んでいて非常に面白かった。
今日はいつもよりやや読書量が多かったので頭が整理しきれていない。
後日また整理してみようと思う。
つづく
公開日2024/3/3