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つづきをよみおえた。
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感想
後半は三島由紀夫擁する「楯の会」に関する内容や、三島由紀夫が残した遺書などが大半を占めていた。あとは読者自身で考えよ、という小室直樹のメッセージと言える。
最後まで読んで最も印象的であったのは、小室直樹と三島由紀夫の共通点である「言動と行動の一致」であった。
それが「信念の貫徹」であると自分は思った。
そこに善悪二元論が入り込む余地はないのかもしれない。
この二項対立的図式が西洋的であり、二.二六事件の本質は二項対立の図式に収まらないと小室直樹は書いていた。
二.二六事件は西洋人からすれば理解不可能ということになる。
日本が特異な国と言われるのは、表面的な慣習や文化のみならず、歴史的な観点からもそのように裏付けられ得るのではないか、と思った。
池田晶子の人生も「言動と行動の一致」に尽きていたように思った。
「善く生きる」とは、「言動と行動を極限にまで近似する」ことなのかもしれない。
考察に値する命題だ。
読書日記1302では井筒俊彦のことを書くが、日本人はあまりに西洋の考え方や文化に染まりきってしまったので(法体系、合理主義など)、仏教に依拠する東洋的なものの見方を少し忘れてしまったのかもしれない。
「勝ったほうが正義」というのは、歴史的には西洋の考え方なのかもしれない。
それほど、無意識のなかには西洋の考え方が入り込んでいるのかもしれない。
こういう視点は今後の思索の材料となる。これだけでも十分収穫のあった読書時間であった。
小室直樹が珍しく語気を強めていた。
“読書だって同じだ。読むことは、己の魂を変革させて、はじめて読んだことになるんだ。生き方を、はっきりかえなくちゃあダメだ。三島由紀夫の小説を読んだのではダメだ。その声を、自分自身の声にしなくてはいけない。そうでしょう。” P120
“寺子屋こそが、学問の道場だ。三島ファンなんて軽率な言葉はつかいたくないけど、われわれがどこまで三島の作品を理解しているか、どこまで深く究めているか、ぼくは疑問に思っている。だから、作品を輪読して、そこから出発することですよ。そうして、三島の思いを伝えていく。” P121
三島由紀夫の『憂国』を今度読んでみたいと思うようになった。
改めて小室直樹用語、「行動的禁欲」について考えさせられた。
・・・
三島由紀夫は、小説に書いていた内容と同じように生きたのだという。
メモ
武田泰淳「彼の場合、小説と現実が一致している。切腹の小説を書いても切腹しないのが建前だが、彼は逆で、切腹の映画をやったからには(三島由紀夫は映画も製作していた)切腹するのだという固定観念があったのでは」
ドナルド・キーン「三島はついに自分のフィクションの世界に入り込んでしまったような思いに駆られる」
“かくあるべき人生を、三島由紀夫は作品化し、さらに、かくあるべき人生を書いたからには、実人生もそこに求めるのが、真の作家であり、男というものであると、彼は実証してみせたのだ。それは、物質文明に強姦されてしまった日本人への怒りだったともいえるだろう。” P167
“最近の作家は、ビジネスとしてありきたりな小説を書いている傾向がみられる。世俗まみれの生活に満足しておりながら、それでは格好がつかぬということから、作品上では、悪に立ち向かう登場人物を活躍させたり、いや、むしろ悪を肯定するといった、近頃の若者に受け入れられる方向を描く。が、実生活上ではどうかというならば、マイホーム主義者なのである。読者は完全に騙されているわけだ。そうした作家や、受けとめても平然としている読者に対して、三島由紀夫は怒りさえ感じていたに違いない。” P166
・・・
終盤は三島由紀夫の国防論についてまとめられていた。
予備知識がここで生きた。
なぜ三島由紀夫が自衛隊に決起を求めたのか。
やはり「武士道」が日本から消え去ってしまったことへの憂いであった。
三島由紀夫は特攻隊が武士道の最後の姿だとした。
“武士道というものは、セルフ・リスペクト(※自己尊敬)とセルフ・サクリファイス(※自己犠牲)ということ、そしてもう一つ、セルフ・レスポンシビリティー(※自己責任)、この三つが結びついたものが武士道である、そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。もしセルフ・リスペクトとセルフ・レスポンシビリティーだけが結合すれば、下手すればナチスに使われたアウシュビッツの収容所長のようになるかもしれない。なぜなら彼としても、自分自身に対する尊敬の念をもっていたろう。自分の職務に対する責任をもっていただろう。しかしながら上層部の命令する通りに四十万のユダヤ人を焚殺したではないか。日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスというものがつくことである。このセルフ・サクリファイスというものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすというのが武士道の非常な特長である。” P233
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しかしながら、やはり謎は多い。
それは当たり前で、一冊読んで分かるくらいならむしろ読むに値すらしないだろう。
今後のあらゆる判断材料として、小室直樹は優れた本をプレゼントしてくれたように思う。
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読書日記1302
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その他数冊
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日記
井筒俊彦を読むには早すぎると思っていたが、小室直樹の本がきっかけでようやく読む気になれた。
とはいってもいきなり『意味の深みへ』といった難解な本を読もうとはとても思えない。
そんなときに本書を手に取った。
「最良の入門書」
入門書としてはいささか高価であったが、読むなら今しかないことは確信したので読むことにした。
エッセイなのでどのページから読んでも大丈夫、というのが本書の魅力的だ。
仏教やイスラム教などの堅苦しい内容ばかりではなく、西洋の哲学にも言及していたり、そこそこ面白く読めそうな気がした。
『三島由紀夫が復活する』ではほぼほぼ割愛されていた唯識論について、こちらの本から勉強しようと思った。
ハイデガーは「人間とは言葉である」という言葉を残したが、井筒俊彦は本書のなかで「存在はコトバである」という命題が成立することについて力説していた。
今日は一日のすべてをほぼ『三島由紀夫が復活する』の読解に時間を注いだので本書は明日以降深く読めたら、と思っている。
イスラム教への関心から三島由紀夫、唯識論へと接続し、井筒俊彦へとたどり着いた。
そして明治維新などにも興味が湧いてきた。
中学生のクソつまらない歴史の授業はいったいなんだったのか、、
公開日2024/2/24