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読書日記1311

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』みすず書房 (1999)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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日記

『崇高と美の観念の起源』

つづきをよみすすめた。(読書日記1310に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/11/%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%83%86%e3%82%ac%e3%83%bb%e3%82%a4%e3%83%bb%e3%82%ac%e3%82%bb%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8e%e5%a4%a7%e8%a1%86%e3%81%ae%e5%8f%8d%e9%80%86%e3%80%8f%e8%aa%ad%e4%ba%86%e8%aa%ad%e6%9b%b8/

  

序盤は趣味と快不快の考察がメインであった。

昨日読んだところでは、バークは趣味というものが主観的ながらも、何かしらの原理があると考えていたことが分かった。

今日はその先の考察を読み進めた。

趣味はなぜバラバラに分かれるのだろうか。

バークは知識の差にあると考えているようだ。

“必ずしも極めて厳密にではないが普通に趣味の違いと呼ばれるものが生まれるのは(・・・)知識における差異からなのである。” P24

少し考えれば誰でも分かることだ。

趣味というものは「経験値」というものが少なくとも影響を与えられる。

小学生のうちに古典を趣味として楽しむ人は恐らく少ない。

だが高齢者となると話は変わるだろう。

辛酸を舐めることで初めて主人公の苦悩というものが理解できるようになる。

歴史も似たようなもので、歴史小説を楽しむ人のなかには人自分の過去と照らし合わせている人もいるかもしれない。また、人生の経験値が増えることで想像力も湧き、若い頃より一層楽しめるという事はあるかもしれない。

文芸書などを読むと、年を取って歴史が面白く感じるようになったと書いている人は少なくない。

“批評的鑑識は人間に備わっている優越した原理にではなく優越した知識にこそ依存する、という見識は若干の例証から裏付けされよう。” P25

バークは絵画を例に持ち出した。

靴職人が靴の絵画を鑑賞する場合、素人とは違って細かい点がイケていないだとか、イケているだとか思うようになるだろう。

芸術の鑑賞者は、それぞれ固有の専門領域に限ってはそれを描いた本人よりも批評家として優れている時もある。バークはそういうことを書いていた。

・・・

バークは「悪趣味」と「無趣味」の違いを説明した。

判断力の備わっていない人が感化されると悪趣味になるかもしれない。

また、判断力はあるが感受性が備わっていない人は趣味を持つことができないかもしれない。ということをバークは書いていた。

これも部分的には正しいと自分には思われた。

感受性いうものを定義するのは難しいが、悪趣味については同意できる。

感受性がほぼ皆無で知性が備わっている人というのは少しおかしな点もあるかもしれないと思ったが、なんとなくは理解できる。

“確かに或る程度の感受性は善き判断の形成の上で必要であるとは言いながら、善き判断は必ずしも快についての鋭敏な感受性から生起するのではない。” P30-31

“趣味はその本性が何であるかに関係なく我々が自らの判断力を改善するのと全く同一の方法によって、即ち我々の知識を拡大し対象に絶えざる注意を集めつつ繰り返し習練を積むことによって改善されることは広く知られている。” P32-33

・・・

次に快と苦(=不快)について考察された。

「快とは苦の除去によって生まれる」は正しくない。

「苦とは快の除去によって生まれる」も正しくない。

バークは快と苦の関係を例に出しながら説明した。

ちょっと考えればこれは誰でも分かる。

明らかに満腹ではないとき(人によってはそれでもあり得る)、ケーキを食べる。

すると普通は気分が多少は晴れる。「美味しい」という感覚によって。

これは苦の除去によって快が生まれるという命題を否定する材料となる。

逆の例も然り。

腹痛で苦しいとき、部屋のエアコンが故障して部屋が極寒になると想定する。

それでも苦は苦で持続する。腹痛と寒さによる二重苦。

この例も苦は快の除去だという命題を否定する材料となる。

以上までが40項の内容であった。

つづく

・・・

『リヒテンベルクの雑記帳』

メモ

ドイツ人について

“ドイツ人は、他の国民も独創的だという理由から絶対的に独創的であろうとするとき以上に摸倣家であることはない。他国の独創的著作家たちは、独創的であろうと望むなど思いつきもしない。団体の精神が思想を生み出す。ある書評家同業組合では、多くの頭脳が、孤立させられたら決して持ちえなかったような思いつきに恵まれた。” P385

“ドイツ人は、本を書く。しかし外国人は、ドイツ人が本を書けるようにする。” P387

⇒ドイツ人にはオリジナリティというものがないと言いたいのだろうか。(?)

“いくつかの経験をただちに一つの体系にまとめるのはまちがいなくドイツ人に特徴的なことだ。イギリス人はそうはしない。すでにベーコンや他の大勢が述べているように、これ以上に学問の進展をさまたげるものはない。” P388

宗教について

“人間にとっては、その全体がカトリックであるほうが、プロテスタントであるよりひょっとするといいかもしれない。しかし、ひとたびプロテスタンティズムが存在するとなれば、人はカトリックであることを恥じずにはいられない。なぜなら、普遍的カトリシズムが持っていた良きものはいまや消滅し、それをふたたび普遍的なものとすることは不可能だからだ。” P494

   

公開日2024/3/4

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