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読書日記1318

              加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』講談社学芸文庫 (2024)

■株式会社講談社

公式HP:https://www.kodansha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/KODANSHA_JP?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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日記

落合陽一氏と植松伸夫氏との対談が面白かった。

なぜ最近のゲーム音楽は新星が生まれてこないのか。

パイオニアの植松伸夫氏が語った。

https://www.youtube.com/watch?v=G2fobhbpdIc

  

財閥には三菱、三井、住友などあるが、ゲーム音楽に例えるならば、それは植松伸夫、すぎやまこういち、下村陽子だと自分は思っている。

そんな植松伸夫が「最近のゲーム音楽は面白くない」と語る理由は、「自由度がありすぎる」からだと自分は解釈した。

8ビットだと「メロディー」「アルペジオン」「ベース」の3つでしか表現ができないが、制限されることによって各々の会社が各々のやり方で多様なファミコンの音楽が在ったのだという。

自由度が高すぎると人は不自由になる現象は、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』によって明かされように、日常的なことから(例えば品数が多すぎて選べない)政治的なことまで様々な範囲に及んでいる。この現象は、学生だと就職活動に見受けられる。(自分のしたいことがハッキリせず30社、50社とエントリーしてしまう人たち)

かといって、自由度が無さすぎるのも却って不幸になる可能性も否定はできない。

何事もバランス。中庸という言葉は便利である。

・・・

『人類が永遠に続くのではないとしたら』

メモ

加藤典洋「全体が部分の総和以上の性質を持つ。それがシステムである」

全体ー総和=フィードマックとして継起的に現れる調整作用

フィードバック・・・ある系の出力(結果)を入力(原因)に戻す操作

   

サイバネティックスの定義(引用:NTT技術ジャーナル)

“1948年にノーバート・ウィーナーが提唱した「サイバネティックス」は、生体と機械における通信と制御を統一的に扱おうという考え方です。”

https://journal.ntt.co.jp/article/15635

加藤典洋によるサイバネティックスの説明

例)キャベツを作りすぎて値崩れが起こった

入力=キャベツを作りすぎた

出力=値崩れが起こった

⇒値崩れを防ぐために収穫したキャベツを一部廃棄した⇒フィードバック・システム

ベイトソン『精神の生態学へ』が中巻でとまってしまっているが、また読み直そうと最近思い始める。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/21/%e3%82%b0%e3%83%ac%e3%82%b4%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%83%99%e3%82%a4%e3%83%88%e3%82%bd%e3%83%b3%e3%80%8e%e7%b2%be%e7%a5%9e%e3%81%ae%e7%94%9f%e6%85%8b%e5%ad%a6%e3%81%b8-%e4%b8%ad-%e3%80%8f/

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『謎床』

ドミニク・チェン氏と松岡正剛氏は、扱う内容が難しいにもかかわらず文章が読みやすい。

この二人の対談は面白そうだと思い、読んでみることに。

ドミニク・チェンの本は新潮文庫『未来をつくる言葉』などがある。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/26/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981183/

メモ

構成主義・・・1910-20年代のソ連における芸術運動。

伝統的な絵画を「ブルジョア芸術」として否定した。鉄、ガラスなどの工業的な素材を用いてつくった立体的なアート作品などを指す

・能力のランドマーク化

ドミニク・チェンはドラクエ世代である。RPGでは経験値を積み、次第に行動の自由度が増える。手に入れるまで10時間以上かかるものはざらにある。「レベルをひたすら上げる」といった作業は苦痛かもしれないが、手に入れるまでの過程というものは確実に記憶に定着する。手に入れるまでに身に付けた能力(例えばドラクエでいうとザオリクといった呪文)という「単語」とその「手に入れたもの」はリンクする。

つまり、手に入れたものから後追いという形で、その過程で何の能力をどこでどのように得たのかを遡ることができる。(能力のランドマーク化という言葉は松岡正剛氏による)

今の情報社会では、このような「必然的な出会い」というものがないということを二人が話していたのが印象的であった。

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『文豪、社長になる』

200ページまで読み進んだ。

総合雑誌に成長していく文藝春秋の姿を垣間見ることができた。

あるとき社長は会社に現金があまりないことを知らされた。

成長の裏では社員の「横領」が横行していたのであった。

どうなる菊池寛。

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『崇高と美の観念の起源』

メモ

“美の観念はどこまで心の性質に適用されうるか” P120

“しかし完全に美しい物体は決して角ばった構成部分から成立っていないのと同様に、この諸部分それ自体もまた決して同じ直線方向に長く連続するものではない。” P125

ここまでを整理すると、崇高に見られる性質は「闇」「暗い」「曖昧」「大きい」に対し、美は「ハッキリ」「明るい」「小さい」と、対照的に見える。

しかし反例も当然ある。

・暗い曲にも美しい曲はある

・大きいから美しいと思えるもの(ライトアップされたスカイツリーなど)もある。

疑問は尽きない。

そろそろ桜の時期である。

桜を人は「キレイ」と言うが、「カワイイ」とはなかなか言わない。

対象が動くかどうか?そうではない。

「キレイ」なイラストもあれば「カワイイ」イラストもある。

「技術によって美」

⇒完全に再現されたえんぴつアートは美しい。しかし、例えばえんぴつアートの絵が「JRのとある駅」だったとする。美しいが、日常的にそこを通る通勤客はその「風景」自体を毎日美しいと思っているとは自分は考えない。

しかしこの「技術によって美」の法則は、イラストには通用しないのではないか?

あるイラストを「キレイ」や「カワイイ」と感じるのは技術と無関係だと自分には思えた。

しかしイラストは、種類によっては現実には存在しない。

すなわち「技術によって美(現実)」は真で、「技術によって美(イラスト)」は偽か?

この命題は考察に値する。

つづく

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