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読書日記1323

木下頌子/渡辺一暁/飯塚理恵/小草泰『分析フェミニズム基本論文集』慶應義塾大学出版会 (2022)

■慶應義塾大学出版会株式会社

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その他数冊

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日記

『死とは何か:さて死んだのは誰なのか』

メモ

「生きる」とはーー生存していること、死んでいないこと

「死ぬ」とはーー生存しなくなること、生きていないこと

「生きる」の否定は「生きていない」=「死ぬ」

逆もしかり

A = ¬B = ¬A

B = ¬A = ¬B

循環論法、トートロジー。

つまり、「生きる」ということを「死ぬ」の対比として、対照として語ることに意味は持てない。

池田晶子がソクラテスになりすまして語る

“死んでるんでないんだから、死んでるんでないところの生きているとはどういうことか、わかりっこないのは当然だろう。わかりっこないから、わかろうとして、生存するとはどういうことかと、僕は日々哲学しているんだがね。そんなことは、皆にはもう、わかっていることらしい。それで、哲学すれば生存がよくなると、こう思うらしいのだ。しかし、生存するとはどういうことかわからないのに、どうすればそれをよくすることができるのか、やっぱり僕にはわからんねえ。” P152

ソクラテスが死刑を受け入れたことに対する池田晶子の弁明

“死ぬとはどういうことなのかわからないから、僕は哲学しているのであって、哲学すれば楽に生きられるかもしれないと思うから哲学しているのではない。もしそうなら、死ぬことよりも生きることのほうがよいことだとわかっていることになってしまうからな。” P154

今週は「君たちはどう生きるか」がなにかと話題だった。

しかし「生きる」とはどういうことか、実はよく分かっていない。

「生きる」は動詞として解釈すれば「生存する」がその答えになる。

しかし、生存するというのは、「死んでいない」ことの裏返しに過ぎない。

従ってトートロジーになり、この観点からみれば「君たちはどう生存するか」という問いかけになり、生存の形式は皆同じなのだから(食べて、寝る)意味をなさない。

このことを理解しているかどうかで、「君たちはどう生きるか」に対する回答は変わる気がするのであった。

池田晶子は田中美知太郎に手厳しいコメントを浴びせていた。

晩年は政治に関心が移ったところに、哲学者としていかがなものかといった具合だった。

池田晶子の政治に対する嫌悪を感じた。

・・・

『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す 増補版』

科学者が「科学哲学」なるものに怒っている。いかがなものか、という内容であった。

「哲学は進歩したのか?どうなんだ?え?」

と、怒りのオーラが読んでいて伝わる。

須藤氏には申し訳ないが、オルテガ『大衆の反逆』に書かれていたことに当てはまるような気がした。

オルテガは、専門家はその分野にしか精通しておらず、他の分野はちんぷんかんぷんである、ということを書いていた。

科学者は「理系>文系」とみてるのではないか、という印象を抱いた。

人文は数値化できないので勝ち負けがはっきりしないと仲正教授が言っていた。

仲正教授はソーカル事件にも言及していた。

説得力のある本だったと記憶している。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/10/%e4%bb%b2%e6%ad%a3%e6%98%8c%e6%a8%b9%e3%80%8efool-on-the-sns%e3%83%bc%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bb%e3%82%a4%e3%83%8f%e6%86%82%e9%ac%b1%e3%83%87%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%80%8f%e8%aa%ad%e4%ba%86/

本書はまだ読み始めたばかりであるが、ひとつの分野だけに集中して取り組むと逆に視野が余計に狭まるような気がしないでもなかった。

・・・

『分析フェミニズム基本論文集』

「性のモノ化」というキーワードに自分は違和感を感じざるを得なくなり、ついにこの本に手を出してしまった。

「モノ化」の概念には、

・道具化(目的を達成するために道具として扱う)

・自律性の否定(相手を自己決定力に欠けたものとして扱う)

・不活性化(相手を能動性を欠くものとして扱う)

・侵襲可能化(相手を毀損していいものとして扱う)

・所有物化(売ったり買ったりできるものとして扱う)

・主観性の否定(相手の感情を考慮しなくていいものとして扱う)

・交換可能化(相手を、他の対象と交換できるものとして扱う)

があげられた。

しかしひとつだけを満たしても、モノというものを説明しきれず、ある程度の条件を十分に満たしていなければ成立しないとされる、と欠かれていた。

自分は端的にまず思ったのは、会社で働いている人間もやはり「モノ」ではないかということである。

フェミニストの批判の対象が資本主義に向かうのは当然と言える。自分もこの点では怒りのようなものを共有しているように思えた。

社員は会社の利益を上げるための目的として扱われ、平社員は判断力に欠けるから上司に相談をしなければならず、ときには能動性のなさを指摘され、暴言を吐かれる。

転職という名の、ある種の人身売買装置は人間が売ったり買ったりされもし、常に代替可能商品としても扱われもし、主観性の否定はさすがにないとは思うが相手の感情には考慮しなくてもいいと見なされるときなんていくらでもある。

見事に「モノ化」は会社の人間に当てはまるのである。

そういう意味では、女性は二重苦に苦しんでいるのだ。

社会からのモノ化。男性からのモノ化。

   

公開日2024/3/16

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