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読書日記1331

      ピーター・シンガー『私たちはどう生きるべきか』ちくま学芸文庫 (2013)

■株式会社筑摩書房

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日記

「私たちはどう生きるべきか」

この問いについて思うことが幾つかある。

・そもそも「生きる」とはどういうことか

・そのような問いが生まれるということは、なんらかの超越的な規範が無いことを意味する

・そのような問いが生まれるくらいには余裕のある生活を私たちは送っている

そもそも「生きる」とはどういうことか。

それを知っていなければどう生きるかという質問が成立しない。

「私たちはどう勉強するべきか」

受験生は「勉強」が意味することを知っていなければ、目的を達成することはできない。

受験生は試験を受けるという前提があり、ここで「目的」と「勉強」が繋がっていることがわかった。

すると、生きるとはどういうことか、という問いに対して何かそこには目的が設定されているように思われてくる。

生きるということには何かの前提があり、「目的」と「生きる」がリンクする。

その前提は何か?と問うこともできる。

ただ、一般論として「生きる」は「死ぬ」の反対として理解されているであろうことから、結局は「存在している」あるいは「生活する」くらいのイメージが妥当だろう。

そして「生活する」が生きることであれば、問いは「私たちはどう生活するか」となる。

生活は生活でしかないのだから、なんだか可笑しな問いになってしまう。

最初から「生きる目的」など存在しないと考えることは、なぜ生きるのか?という問いを無視することになる。

それはそれでいいのではないだろうか。

ヒュームの法則:「~である」から「~べき」は導けないというのは、この考えと矛盾しない。

「私は存在している」という事実からは「私は○○して生きる(存在する)べきである」とはならない。

従って、生きる目的など端から無かった、という考えは矛盾しない。

人間の面白いところは、機械とは違って、それでも「なぜ生きるのか」「なんのために仕事をするのか」と疑問に思ってしまうことにある。

宮台氏は「社会」と「世界」を区別した。

前者は「言語」で構築される空間であり(内)、後者は言語では構築されない「外」とされた。

俯瞰してみると、人間は社会の空間と世界の空間を行き来していることが分かる。

「意味」を持つ存在でありながらも「無意味」に存在している。

宮台氏は『14歳からの社会学』において、人間は規定されつつも<自由>に生きる存在であると述べた。

自由とは何を意味するか。

・・・

人はそれをする意味ある?とよく言う。

それをする価値はある?とほぼ同じ意味である。

「意味」と「価値」は同じように使えるか?

・自由であることは価値がある。

・自由であることは意味がある。

少し変形してみる。

・価値があるから自由なのである。

・意味があるから自由なのである。

この命題を少しの間見つめてみると、池田晶子が「価値そのものは人の持つ精神によって決まる」と言っていたことを思い出す。

精神(プラトン的には「魂」の意)を世話してやること、つまり「善く生きる」ということが何を意味するのか。

わずかに見えてくる感触を覚えた。

究極の価値が「自由」であれば、すべての事象から自由であることがその答えになり得る。

アラン「魂とは肉体を拒む何者かである」とはつまり、ソクラテスが死刑を受け入れたことが、究極の「価値=自由」だということの言い換えなのかもしれない。

   

公開日2024/3/24

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