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新・読書日記140

アニル・セス『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』青土社(2022)

■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

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     トマス・ネーゲル『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房(2023)

■株式会社勁草書房

公式HP:https://www.keisoshobo.co.jp

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       ドストエフスキー『悪霊 上』岩波文庫(1989)

■株式会社岩波書店

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          松下隆志『ロシア文学の怪物たち』書肆侃侃房(2024)

■株式会社書肆侃侃房

公式HP:http://www.kankanbou.com/

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バーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』ちくま学芸文庫(2020)

■株式会社筑摩書房

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             沼野充義『徹夜の塊3 世界文学論』作品社(2020)

■株式会社作品社

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       仲正昌樹『教養主義復権論―本屋さんの学校2』明月堂書店(2009)

■株式会社明月堂書店

公式HP:http://meigetu.net/?p=7480

公式X(旧 Twitter):不明

             荻原魚雷『中年の本棚』紀伊国屋書店(2020)

■株式会社紀伊国屋書店

公式HP:https://www.kinokuniya.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/KinoShinjuku?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

午前中は『教養主義復権論―本屋さんの学校2』を読んだり『中年の本棚』をちまちまと読んだ。

『中年の本棚』で、30半ばになった著者は中村光夫を読み始めたという件があった。セレンディピティとは面白いもので、そのあと古本まつりに足を運んだ自分は、偶然にも中村光夫の本が置いてあった(『風俗小説論』講談社文芸文庫)のを発見。amazonで4000円くらいする本が300円で買えた。ついでに高橋和巳の本も購入。

仲正教授の講義をその場で聞いているような感覚で『教養主義復権論』を読む。

仲正教授の教養の定義がしっくり来たのでメモ。

「教養(humanitasu)とは一般的な見解とオリジナルな見解を見分ける能力のことをいう」

もともと誰が言い出したことなのか、そういうファクトチェックは時に大事なものとなる。これはなかなか良い定義だと感じた。

次にスローターダイクの話に移行。

啓蒙主義の限界は、不合理な結果となっている。また逆説だ。世の中、逆説だらけで本当に面白いと日々感じる。

つまり、合理的であろうとすればするほど、非合理的な結果に終わるという事である。

小室直樹は「合理的であろうとする動機が合理的であるはずがない」と言っていて、これはうまく真理を突いていると感じたものだ。

  

メモ

シニシズムについて説明する仲正教授

”(・・・)ポイントははっきりしています。啓蒙理性は、「教養」の徹底という形で、「私たち」の内にある非合理的、感情的な部分、根拠のない思い込み(イデオロギー)のようなものを駆逐しようとしてきたが、最終的に、自らを啓蒙へと駆り立てている動機自体に非合理性が含まれていることを突き止めるに至り、それをも除去しようとしているうちに、自己矛盾に陥っているという話です。簡単に言うと、「非合理性を排除して、理性的になりたい」という私の願望自体には、何の合理的根拠もないということが分かってしまう、ということです。完全に合理的になるには、「とにかく合理的であろうとする”自分”自身」を消去しなければならない、ということに気づいた啓蒙理性は、無気力状態に陥らざるをえない。それが「シニシズム」です。” P100-101

  

・・・

『中年の本棚』

メモ

中村光夫の小説論について

“若いころは文学を読むことで「人生を先取り」した気持ちを味わい、恋愛や生と死、人生の謎をわかった気になった。ただし、小説をどんなに読んでも「われわれは結局そこから自分の経験したことしか読み取ることができない」という。” P173

  

・・・

『悪霊 上』

ちまちまと読み進めた。なんとか160ページくらいは進んだかもしれない。まだ物語はそこまで動いていないような感触である。

メモ

ドストエフスキーは語り手に言わせている

(プーシキン、ゴーゴリ、モリエール、ヴォルテールを指して)「自分自身の新しい言葉を発するために生まれてきた人たち」

  

・・・

『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』

書店をうろうろしながら物を考えていた。すべての社会問題の根本原因は教育にあると自分は考えているが、スローターダイクが仮に正しければ、啓蒙理性の合理性は今後も人類の期待を裏切り続けることになる。合理的であろうとするほどに非合理的になるというのはさきほど書いた。執行草舟氏はいまの世界には社会哲学がないということを語っていた。リベラル、コミュニタリアニズム、リバタリアニズム、コスモポリタニズム、いろいろと多元的な価値観に溢れる世界ではあるが、なかなかうまくまとまらず、SNSでは対立が多い今日、正直なところ、自分がギリギリ信頼できる考え方はカントの義務論くらいしかない。そんな義務論も批判の槍玉に挙げられている。

そろそろ本ばかり読むことを止めて、一度自分なりの考えをまとめてみないか、という内なる声が湧き出つつ、まだ勉強不足のところは読書を通じて補っていきたいと考えながら本屋をうろうろしていたように記憶している。

『予測する心』という本が少し気になっている。立ち読みしたが、ちょっと違うかな、と思い棚へ戻す。

となりの社会学のコーナー。フェミニズム関連の図書がどんどん増えているように感じる。

「男はクズと言ったら性差別になるのか」という本がやはりどうしても目についてしまう。性の非対称性。差異。

差異について、話が逸れるが自分は「意味」と「価値」の言葉の違いをそろそろハッキリさせたいと思った。

  

・・・

意味は名詞として機能し、動詞としても機能する。「価値」はそうではない。

「~を意味する」はあるが「~を価値する」はない。

ここに両者の差異が認められる。

もう少し踏み込んで考えてみた。

  

意味という言葉に近いものをいろいろと挙げる。

「内容」「表示」

価値はどうだろうか。

価値は難しい。

   

価値というものは、それを感じる「主体=人間」が前提となっている。そして、どう感じるかは人それぞれなので変動的である。しかし意味はある程度固定的である(解釈の次第で多少意味は変わるが、ある程度の範囲に限られる、価値は明らかに感じる人と感じない人に分かれる)。ここにまた差異が認められる。

意味はどちらかというと客観に近いかもしれない。価値は主観的なものでもある。ただ、金銭的に変換できるもの、その価値は数値(価格)として客観的。やはり「意味」と「価値」は似ている。

なぜ自分はこんなことを考え始めたのか。

トマス・ネーゲルが面白いことを書いていた、というのも理由として挙げられる。

トマス・ネーゲルは人生の無意味性について、「百万年後にはどうせ自分はいないのだから、今なにやっても無意味だ」という虚無感について論駁していた。

“今われわれが行っていることは、何であれ百万年後にはどうでもよいことになってしまう、としばしば言われる。しかし、もしそれが正しいとすれば、同じ根拠によって、百万年後に起こることは、何であれ今はどうでもよいことだ、とも言えるはずである。だとすれば、その一例である、百万年後に今われわれが行っていることがどうでもよいことになってしまうというそのことも、今はどうでもよいことだ、と言えるはずなのである。” P15   

論理的に筋が通っているように感じる。

人間はバイアスの塊みたいなもので、自分は論理に関心が傾いた。

「意味」についても、結局のところ自分が考えていることは誤謬だらけなのではないか、と一瞬でも頭によぎると、自分で考えることの自身が失われていく感覚を覚えた。論理か。と、ちくま文庫のコーナーをうろうろしていると『戦略読書日記』という本が目の前にあった。

立ち読みしてみると、論理は面白いということが書かれていた。

論理は確かに奥が深い。奥が深すぎるがゆえに自分は恐れている。自分の非合理的な思考、幼稚な思考をなんとかしたい。明らかに欲望の類ではあるが、論理学は今自分にとって必要な学かもしれないと思えた。

  

・・・

一方で、意味と論理のことばかり考えていると、それはそれで頭でっかちに陥るような気がしないでもない。

批評家は往々にして、現代小説を無意味と切り捨てるが、「それ自体が善」であるような「書くという行為」を無視していないだろうか。

意味を求めすぎることによって意味を見出せない。ただの誤謬なんじゃあないか。批評家くそくらえ。

そんなことを考えながら批評コーナーを過ぎる。

  

・・・

『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』

意識にはグラデーションがある。当たり前だ。しかしこの当たり前に切り込む本が見当たらなかった。そして、あった。この本書だ。

麻酔状態と植物状態は厳密には違う。また、近年、最新の意識測定器によってわずかに意識の解明が進んでいるということであった。この本は面白い。いっきに70ページほど読み進めた。

メモ

“機能主義とは、意識はシステムが何でできているかには(つまりその物理的構造には)依存せず、システムが何をするかに、それが遂行する機能に、それが入力をどのように出力に変換するかにのみ、依存するという考え方である。” P26

  

・・・

『生き方について哲学は何が言えるか』

隙間時間さえあれば本書を読んでいた。

自分は「なぜ?」という問いには二つの返答パターンがあると考えた。

  

・目的的(~のために)

・HOW的(いかにして)

例えば、なぜ地球は太陽をまわるのか?という問いについては後者のHOWによって、いかにして太陽をまわるのか、物理的に説明される。しかし目的は考えることができない。「なんのために地球は太陽をまわっているのか?」そんな問いはばかげている。

これを突き詰めていく。

欲求は合理的な欲求と、非合理的な欲求の二つに分けられるように思われた。

そしてそれが、今考えた「なぜ?」の回答パターンとの構造とシンクロしているようにみえた。

  

・合理的(目的的・意志が介在)

・不合理(HOW的・意志の不在)

お腹がすいた。「食べたい」

なぜ?それは不合理だ。自らの意志には従わないからである。説明のHOW的。生理学が答えを用意している。いかにしてそうなるか、HOWの視点で説明可能。

一方で、合理的な目的。それは常に意志が存在する。「~に行きたい」という欲求。

やはりこれは目的的。つまりHOW(物理学など)では説明できない。

  

これを突き詰めると、本能的な欲求は不合理、非本能的な欲求は合理的であると推察される。

そして、人生の不合理とは、まさに前者が後者を飲み込んでしまうからなのだと自分は気が付いた時、ソクラテスの存在理由について改めて思い知らされた。

  

善く生きるとは「最善の状態へ向かう」ことなのだろうか。

ウィリアムズは、本書で冷徹に問いかける。本書は概説のような位置づけなので、ソクラテスを時には批判を浴びせている。

   

自分は欲求の充足に耽る快楽主義者を軽蔑している。

今日の考察に沿えば、やはり不合理な欲求の奴隷だからだ。

欲求自体は自らが生み出すものではない。本能的な欲求には意志が介在しない。にもかかわらずそれに耽るということは、やはり奴隷なのであり、遺伝子に家畜なのである。

そのことを念頭に入れて、明日以降も「意味」と「価値」について思いを巡らせてみようと思う。

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