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新・読書日記141

        ミシェル・ウエルベック『ウエルベック発言集』白水社(2022)

■株式会社白水社

公式HP:https://www.hakusuisha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/hakusuisha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

アニル・セス『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』青土社(2022)

■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/seidosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

       ドストエフスキー『悪霊 上』岩波文庫(1989)

■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho

        仲正昌樹『教養主義復権論―本屋さんの学校2』明月堂書店(2009)

■株式会社明月堂書店

公式HP:http://meigetu.net/?p=7480

公式X(旧 Twitter):不明

      トマス・ネーゲル『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房(2023)

■株式会社勁草書房

公式HP:https://www.keisoshobo.co.jp

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/keisoshobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

午前中は『教養主義復権論―本屋さんの学校2』を読みながら、徐々に抽象的な物事を考え始め、午後は昨日の考察を進めたりドストエフスキーを電車で読みながら『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』の読解に注力した。

ブックオフのスーパーセールが最終日ということもあり、ブックオフも二店舗まわった。

ロールズ『正義論』がどっしりと置かれていたが、さすがにもう読む気が失せているのでそのままにしておいた。

店舗によってラインナップがハッキリすると自分はやはり感じた。

自分のお気に入りの場所は常に欲しい本が置いてある。逆に、もうここはいかない、というようなところに久しぶりに行ったが、やはり外国文学のコーナーを見てその少なさにがっかりしてしまった。結局そこは全体的にやや淋しいラインナップであった。土地的にはわりと本を読む人が沢山いそうなのであるが、こればかりは現場を知らないので何とも言えない。もしかすれば、スーパーセール初日にせどり屋さんがごっそりかっさらって行ったのかもしれない。

  

電車で本を読む人がほとんどいない。自分も昔はそちら側の人間であったが、あまりにスマホばかりいじる人たちを見て、自分はなんとも言えない気分になるのであった。そこはもうずっと同じなので(読む人は一定数はいて読む、いじる人はいじる)考えないことにする。

あまりに暑いので川沿いを歩きながらいろいろと思いを巡らせる時間が取れないのがネックである。

秋になったら書物を置いて外へ出たい。

こんなときに本を外で読んだらすぐに本が茶色になりそうだ。

  

・・・

『教養主義復権論―本屋さんの学校2』

この時代、「教養」なんていうと雑学だとか「お勉強」だとか思われてしまう。しかし教養は自由になるための技巧なのである。クイズのような知識は教養ではない。これを義務教育からしっかりと教えることができればもっと生産的な国になると思うのであるが、そんなことをここでぼやいても、皮肉にも非生産的だ。

その背景に、日本の文系と括られる学部の権威が落ちていることにあると仲正教授たちは語る。

なかには博士号を持っていない人が准教授、教授のポストについている人もいるという。

ドイツは大学に強い権威を持っている。ドイツには教授資格論文があり、それをパスしても教授のポストになれない人もいると語られた。日本では在野の人が評論を書いても「所詮アマチュア」と思われるかもしれないが、ドイツも同じで、しかしペーター・スローターダイクは例外的で、在野で評論活動をしながら結果的に大学の教授になったという。

1980年代はポストモダンが流行し、いろいろな若者が哲学を読んでいたと聞くが、最近はジュンク堂に行くと、人文系の本棚は本当に人が少ないと感じる。これからもしばらくその状態が続くかもしれない。

人文書役に立たない論は半分正しいが半分は不正解だと自分は考えている。自分もそうであるが、想像力が足りない人が多い気がしてくるのである。

ネットの炎上は意図的なものもあるが、そうでないものは恐らく想像力の欠如から生まれる。炎上させる側も、それに反応する側も、揃いもそろって想像力が足りないと思わせるツイートは目につく。そういう人間は少年のケースが多いかもしれないが、中年でそのようなコメントをする人がいるとすれば、もう絶望的である。

  

午前中、すごい勢いでペンを走らせたので、記憶に定着するようにここにも書き写していく。

メモ

日本のジャーナリズムは文芸批評が占める割合が高い。

⇒政治哲学、政治思想をうまく拾っている

そして、文芸批評が人生論を展開するようになっている。

スローターダイク「書物というのは、とくに哲学や文学などの非常に抽象的な書物というのは、そのような感染作用を起こす」

  

以下、昨日の考察のつづき(断片)

なぜ理性的選択(合理性)が非合理なものとなるのか

・ヒューム的回答

⇒「理性(合理)は情念(非合理)の奴隷だからである」

 

「意味」と「価値」の使いわけ考察

「人生の意味とは」という問いは、「人生の内容それ自体である」という回答にならないだろうか。

「人生の価値とは」という問いは、「人生の内容それ自体の評価」という回答にならないだろうか。

  

意味とは表示、内容

価値とは評価

漠然とした問いには漠然とした回答が返ってくる

  

・・・

なぜ人は「人生の意味とは何か」と問うのだろうか。

昨日、「なぜ」には二つの回答パターンがあると考えた。

・For的(目的を問うもの)

・How的(メカニズム(いかにして)を問うもの)

⇒HOWではないと分かるので、For的。

そこには目的が存在するはずである。

⇒How的な問いは不合理なもの、と昨日考えたが、今日もそれで正しいと考える。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/08/17/%e6%96%b0%e3%83%bb%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98140/

  

つまり、この問いには目的が存在するし、問いの起点は、本能的欲求がその起爆剤となっている。

この問いの目的は何か、を問うてみる。

⇒欲求を充足させたいという本能的なものが原因である

⇒欲求を満たすため(For的)とみなせる。

  

書けば客観的に自分を俯瞰できるのが文字の力だ。

二階の欲求<<一階の欲求

自分は〇〇の欲求を持ちたいという欲求を持つ、は力としては弱い。弱いからこそ一階の欲求(本能)が常に上回る。

論理の力は実は脆弱なのだ。

頭では分かっているが、実際はそうはならない。やはり理性は情念の奴隷なのだろうか。ヒュームは正しいのだろうか。プラトン主義者としてはやや不安になる。

   

・・・

『ウエルベック発言集』

メモ

創造力と化した不条理について

“(・・・)人間は世界のなかで孤独を感じる。これは地上での原初の生活の頃からそうであったし、人間が人間となる以前からそうであった。これは言語よりもはるかに古いものなのだ。この心を揺さぶる知覚を、詩は取り戻そうとしている。詩はもちろん言語を、「記号」を用いるが、言語は詩にとって手段にすぎない。ジャン・コーエンはその理論を次のような表現で要約している。「詩とは意味の歌である」、と。このとき、彼がさらに別の主張の展開に辿り着いたのだと気づかされる。世界を知覚するある種の方法はそれ自体が詩的なのだ。” P61

  

“詩は因果の連鎖を断ち切り、不条理の爆発力とたえず戯れるが、それはたんなる不条理ではない。それは創造力と化した不条理である。” P64

  

・・・

立ち読みで印象的なフレーズを思い出した。

敢えて作家の名前は書かない。

昔、人は大衆小説と文学を区別できたのだという。それは問いがあるかどうかということであった。

文学は問いかける。大衆小説は答えが用意されているのだという。

答えが出てしまえばそれでスッキリし、次の月には忘れてしまうかもしれない。問いが解消されないのは苦しいが、問いの連鎖によって高次の領域に昇華することができる。文学はそういう認識でいいかもしれない、そう思うに至る。

  

・・・

『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』

メモ

“まず第一に、人生は、それぞれの活動が後に続く行為を目的として持つような活動の連続から成り立っているのではない。正当化の鎖は、人生の内部で繰り返し終局に達するのであって、過程が全体として正当化されるかどうかは、そうした終局点の終局性とは何の関係もない。” P17

  

・・・

『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』

知覚の哲学のような話が中心であった。ハッキリいって易しくない。ちょっと悔しさが残る。

分類できないものは知覚できない。脳は錯覚がつきもの。「耳鳴り」は内なる騒音。

こういうことを考えると実在論めいた話になってくる。

「意味」と「価値」を考えると、価値のほうは主観的なものなので、意識とどこかの観点で繋がっているとは予想されるが、本書から引き出せるヒントはごくわずかなものにとどまるかもしれない。

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