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日記
久しぶりに紀伊國屋書店へ足を運んだ。ペーター・スローターダイクの新刊が出ていたり、『土と内臓』の著者の最新刊が出ていた。いろいろと吟味しながら書店をうろうろ徘徊した。
仕事をしているとどうしても土日にしかまとまった読書時間を取れない。土日に読むため、土日にいっきに読み込む本を求め、数冊購入。
帰りにブックオフも寄ったので、少しハードワークだったように思う。
カフェで爆睡するのも怖かったので、今日は軽めの内容の本を読むことで、頭を40%くらいの力でうまく爆睡を回避しながら読んだ。
ブックオフで松岡正剛氏の本が売っていたのでクーポンとポイントを駆使し、安く買うことができた。(『本から本へ』)
この本はシェア本棚をやっていた時代に、年上の男性が購入して以来手放した状態であった。引退してからまた復帰してきたような感触だ。
・・・
『本から本へ』の、パスカル『パンセ』の項を開き、ゆっくりと最後まで読んだ。
松岡正剛氏はパンセに編集工学の精神が宿っていることを語る。「パスカルは精神を編集した」と書かれている。
メモ
“[四九] ある場面ではパリを「パリ」とよばなければならないし、ほかのある場面では「王国の首都」とよばなければならない。
[二三] 言葉はいろいろ配列され、いろいろの意味をとる。また意味はいろいろに配列されて異なる効果を生む。
[二二] 同じ思考でも配置を変えるなら別のメッセージになるはずなのである。同じ言葉でも、並べかたを変えるなら、別の思想を構成するはずなのだ。
[一九] 著作を拵えていて一番あとに気がつくことは、何を一番初めに置いたらよいかを知らなければならないということである。” P38
・・・
ブログを書いて初期の頃、あとで読み返すと何を言っているのかさっぱり分からない記事が多くあり反省したのを記憶している。
内から湧き上がる言葉を抑えきれず、配列をとくに考慮せずにそのまま文章にしてしまったのだろうと、今は思える。
文法はひとつの文章によって完結するものであるが、メッセージはそうではない。
本は無数の文章a、文章b、文章c、、、によって構成されている。文法は文章をどう束ねるのかまでは教えてくれない。これはセンスというものなのだろう。ある程度の「正しさ」はあるが、答えはない。読んでいて深みを感じさせられた。
ここでアナロジーを使ってみると、思想も思考a、思考b、思考c、、、が束になったものと言える。
この組み合わせ次第で社会主義に傾いたり、新自由主義的な思想に固まっていくのかもしれない。
どう組み合わせていくのか、それは情動がある程度決定づけるのだろうけれども、それ以上深いことは自分には分からない。
そんなことを考えてると『例外の理論』に面白いことが書いてあった。
“エクリチュールについては、いま、ぼくたちは従来とはまったく違う考え方をしなければならない。思考のほうでは自分がことばにあらわされていると思いこんでいるのに、思考の知らないうちに「思考されるもの」が語られてしまうような場面を念頭において考えなければならない。” P80
思考というものにはまり込むと、その道筋を暗に導いているもの、つまり「無意識」というものの侵犯を許すことになる。
「自分の言葉を持て」と作家はたまに語りかけるが、自分の言葉は誰かの言葉であったり、その類似するものであったりする。
そもそも言葉は部分であり、全体でもある。
一言つぶやいてもそれは自分の言葉であり、本のようなまとまった文章を書いてもそれは自分の言葉である。
まとまった文章でさえも、誰かの孫引きのような文章になってしまったりする。
オリジナリティとはいったいなんなのか。これを突き詰めていくと存在論などとぶつかりそうだ。
「言葉と存在」
そんな本が書かれたらとても面白そうだ。