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新・読書日記155(読書日記1495)

    池田晶子『41歳からの哲学』新潮社(2004)

■株式会社新潮社

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           松岡正剛『本から本へ』角川ソフィア文庫(2018)

■株式会社KADOKAWA

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公式X(角川ソフィア文庫)(旧 Twitter):https://twitter.com/kadokawagakugei?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

            執行草舟『超葉隠論』実業之日本社(2020)

■株式会社実業之日本社

公式HP:https://www.j-n.co.jp/

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/jippi_pr

その他数冊

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日記

『超葉隠論』

本書も二周目なので、教条主義に陥らず、批判的に自分の頭と闘わせてみようという気概で読書を行った。

道徳批判が印象的で頭の中に刻まれた。物質主義が土台にある限り、道徳は地上的な欲に回収されていくというのが主な内容であった。『現代の考察』の内容を踏まえれば、結局のところこれはヒューマニズム批判だなとすぐに分かった。ヒューマニズムについて過去に少し考えたことがある。ヒューマニズムは逆説的に無慈悲な平等によって、苦しむ人を増やすかもしれないということを思ったことがある。

  

ヒューマニズムは人道主義、人文主義などと訳されるが、宗教の力が弱くなったので今は命の価値を至上とする人道主義のほうが近いかもしれない。

これが過剰になると尊厳なき死、つまり延命措置によって人間性よりも物質のほうに重きがいくわけである。

命が最高の価値を持つので、物質面ではより平等な社会になる。税金による再分配は人道主義の延長線上にあると言える。

あらゆる平等が進んだ。機会の平等、教育の平等、就労の平等など。

しかしこれがリベラリズムを過剰な方向に向かわせる状況を招いたと自分は考えた。暴走するポリコレなどがそれに相当すると思われる。

昔、自分は社会には絶対にある程度の平等が必要だと考えていた。しかし、今は少し違ったように見るようになった。

平等が進み過ぎると何故か争いごとがふえる。

弱者男性という言葉もこの流れによって生み出されたと自分は考えている。

  

しかし執行草舟氏の批判はそういうところにあるのではないというのは分かっている。

ヒューマニズムは富を増やすことによって命がより救われるのであれば、それを是とする思想だ。

すなわち、執行草舟氏のいうところの「無限成長経済」を社会全体が許容することになる。

表面的なことをさらっと思い出すと、海にはプラスチックごみなどが延々と増え、核燃料は生産され続け、還元不能物質が生産されつづけていく。

  

循環経済にはならないので、道徳批判はこの流れと繋がっていると自分は分かった。

執行草舟氏はカントの思想に強く影響を受けていると自分には思えた。功利主義的な発想はヒューマニズムと親和性が高いので、どちらかといえばカントの義務論を支持している。その点では自分も共通していて、カントの義務論によって生きていくのがベストだと今では考えている。ただ、無目的の合目的性の本質はじつのところまだ全然分かっていない。

生命哲学とカント哲学を融合させていく考えは非常に魅力的だ。

メモ

“得をしようと思うから、迷うのである。みじめでも何でも、生きたいと思うから迷うのだ。” P92

”これはまた、無目的の目的とも訳される。つまり、本当の生命の力は、目的をもたないほうが、却って目的に沿って生きることが出来るという考え方を言っている。” P93

ヴィリエ・ド・リラダン「人間の意志はたったひとつの意志でも、世界を揺るがす力を持っている」

  

・・・

『41歳からの哲学』『本から本へ』

執行草舟氏と池田晶子を対立させると面白い。

池田晶子は生きていることがどうでもいいと常々語っていることから分かるように、彼女の思想はヒューマニズムには回収されない。

執行草舟氏の批判は池田晶子には適用されない。これが読み手としては非常に面白い。

自分の人生を善く生きること以外に意味はないと池田晶子は書いていた。

  

松岡正剛氏は、話し言葉から書き言葉に移行するに従って言葉が消費されるようになったことを書いていた。

当たり前といえば当たり前ではあるが、言葉の意味をめぐってはよくいろいろ解釈が分かれるのはこの流れのせいなのではないかと自分は思い始める。

解釈がずれると論争や喧嘩のもとになる。

人によって言葉の定義にばらつきが生まれ、言葉が多義的になった。

言葉が溢れるすぎると言葉の価値がなくなっていく。

これを考えれば、本屋がつぶれていくのは実はよいことなのではないか。

必要から生まれる本こそが本物の本だとすれば、必要だと思い込ませることで成り立つ本の市場なんてくそくらえではないか。

そう思えてくる。

このことについてもまだまだ考える余地はありそうだ。

つづく

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