閉じる

新・読書日記156(読書日記1496)

  J・D・バナール『宇宙・肉体・悪魔【新版】――理性的精神の敵について』みすず書房(2020)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

  トマス・ネーゲル『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房(2023)

■株式会社勁草書房

公式HP:https://www.keisoshobo.co.jp

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/keisoshobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

  オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』岩波文庫(2019)

■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho

その他数冊

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日記

トマス・ネーゲル、ドストエフスキーの本を読み込んだ。

400ページ弱まで読み進んだが、自身の読解力・集中力のなさではさすがに『悪霊 上』の物語の筋がなかなか見えなかったので、とうとう齋藤孝氏の本で『悪霊』のみどころをチェックせざるをえなかった。

ブックオフは要所要所で役に立つ。立ち読みが終わったらうろうろして知らない本があれば買う。良い循環になっていると感じる。

スチェパン氏とヴァルヴァーラ夫人がしょっちゅう出てくるが、この話の中心人物はニコラスだということで、明日からはそこに着目して読んでいきたい。

  

・・・

『ドリアン・グレイの肖像』

ドストエフスキーにだいぶ時間を取られてしまい、他の文学作品が読めないでいた。

仕方がなく同時並行で読むことにした。オスカー・ワイルドをどうしても読みたくなってしまった。

ドストエフスキーの癖が強すぎたので、こちらの小説はすぐにイメージが浮かび、いっそう読み易さを感じた。

序文が非常に力強く、これからの展開が期待大。

  

・・・

『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』

人生と意味についてのネーゲルの哲学を読みながら考えさせられている。

漫画ハンターハンターでは、人間がキメラアントの家畜になってしまいそうになり、「人類 vs キメラアント」の闘いが繰り広げられる。人間に仮になんらかの存在目的が用意されている場合、その生に意味があるのかネーゲルは問うた。しかしキメラアントの場合では意義を見出せないという回答を出す。

“(・・・)そのことによって人生に意味が与えられるとは考えられない。それには二つの理由がある。第一に、われわれはまだ、人間を食用にするこの存在者の生の意義に関しては何も知らないからであり。第二に、たとえ食用にされるというこの役割のゆえにわれわれの人生が彼らにとって有意味なものになろうとしても、どうしてその役割のゆえにわれわれの人生がわれわれにとって有意味なものになるかは、はっきりしないからである。” P22

  

・・・

いろいろ立ち読みしてみたが、言語が即興によって形成されてきたという仮説を提唱する本についてはいろいろと考えさせられた。

「意味」と似たように使われる「価値」という言葉はどうだろうか。そもそも価値という言葉は近代以前にはなかったのではないだろうか。価値とは経済的な領域にとどまるのではないだろうか。

価値を問うことは哲学的に意味は薄いのかもしれない。

すべての芸術はおよそ無用なものであるとオスカー・ワイルドは書いているが、芸術は経済的に親和性がないだけであって、価値がないとまでは言っていない。また、価値がないと分かっているにもかかわらず小説を書き、発表するという過程を遂行したという時点で、どこか矛盾している。

いや、こう書いてみると、なんとなくおかしなことを書いている自分がいるのだと見えてくる。

思い出した。今日は価値というものがいかに情動とリンクしているのか、そこを考えたことを思い出した。

  

~することに自分は価値を見出せない。という言葉の使い方をする。これは「気が進まない」ということと等しい。つまり、価値とは心の、その対象への傾向性であると言えないだろうか。

ヒュームの法則と関連付けて考えてみると合点する。つまり、価値(~するべき)という言葉・概念は、心がない主体には存在しないのではないか。

事実は端的に起きた出来事を記述するものだ。起きた出来事は著しく表面的であって、記述が容易である。しかし価値についてはそうはいかない。

このことについてはいろいろと考えるポイントが多いので後日またゆっくり考えたい。

  

・・・

『宇宙・肉体・悪魔【新版】――理性的精神の敵について』

未来予測ということであったが、宇宙に住むことを考えた時に、火星ではなくてその辺の小惑星を植民地(宇宙島)にしてしまうという発想は非常にユニークなものであった。

1ページから宇宙の定住化計画までゆっくりと読んでみたが部分的に現実になっている予想もあり、これが面白いものであった。

自分はなにが悪魔なのか、悪魔とは何を指しているのか気になり少しページを飛ばして確認したが、それは人間自身のことであった。

心理学はアリストテレスの時代からほとんど進歩していないと著者は語っていたが、たしかにそう思えなくもない。

一度研究をストップし、科学者同士の知識の共有を著者は提案した。それは非常に有意義だと自分にも思えた。

細分化し過ぎた現代の学問は、コロナ禍の混乱で分かったように、逆説的に学問が生きていない状況になっている。

細菌学者はあれこれ言い、免疫学者はあれこれいい、遺伝学者はまたあれこれいう。

  

この本もまた深く、いろいろと考えさせられるものとなっている。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free