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福原義春『だから人は本を読む』読了 + 新・読書日記157(読書日記1497)

       福原義春『だから人は本を読む』東洋経済新報社(2009)

■株式会社東洋経済新報社

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感想

ブックオフで面白そうだと思い、3日ほどかけて最後まで読み進めた。

「忙しいからといって本が読めないというのは言い訳である」と著者は語る。そりゃそうだと思いつつ、これは致命的な日本の社会構造だと自分には思えた。

かりに、40代、50代と年を重ねるにつれて責任が増え、帰宅が遅くなるとすれば、本当に自由に本を読めるのは若い時代にしかない。体力的にも、学者を除けば、休日などまとまった時間があるときに一日10時間読めるのは若さの特権であると自分は思う。この瞬間を逃せばあとは惰性でしか物事は進まない。また、そんな社会の仕組みになっているからこそ、日本は低迷なのだと思うところはあった。

こういうことを書くと、本を読めばなんでもできると思っているのだなと、読書至上主義のレッテルを貼られてしまいかねないが、前提条件として思考の基盤に人類の蓄積した知恵を据えずに何を置けと言うのだろうか。

ある程度考えが体系化されたものを思想と言うならば、日本人は平均的に思想的に弱い。

なぜならば、今日の本屋の低迷状況を見れば大局的に判断ができるからである。

著者は言う。「書店に行っても面白い本がないことが多い」

そりゃそうだ。中型の本屋は売れそうなものばかり置いてあるからだ。

  

売れそうな本というのは、ようするにファストフードのような本だ。

自分は読み終わって分かった。書店がつぶれていくということは、思想的な弱さの裏返しである、と。

それを裏付ける内容が本書にちりばめられていた。

こういうことを書いても、なんだか生産的でもなくただただ不満しか書けないので、自分は虚無的になってしまう。ただ、本当にもう書店はギリギリの世界にいるのだということを考えさせられる。

『書店の棚 本の気配』にも書いてあったが、そもそも店員が本に対する知識が足りないのはまずい。文句になってしまうので一点だけの指摘にとどめたい。コロナが流行った時、地元の書店にはカミュ『ペスト』が山積みされた。これはあまりにも短絡的というか、もう店長ですらこんななのかと思わされた。もっと置く本があるだろうと思わずにはいられない。陰謀論を置くのではなく、せめて運命との向き合い方を考えさせるような本、つまりは哲学的な本くらいは置いてほしいものであった。

出版社、取次、営業、書店の連帯感がない気もする。これは昨日書いたことと似ている、つまり、専門分野が細分化しているゆえに双方のコミュニケーションがぎこちなくなっているのである。せめて遺伝などを専門とする生物学者と医者を中心とした免疫学者との共著くらいは欲しかった。マスコミでは例えば複数分野の専門家による多角的かつ包括的な本気の議論、とくそういうものはなかったように記憶している。

まとまりがない。いろいろ考えさせられる。

  

メモ

“ビジネスの世界でも「見える化」などという言葉が半ば流行語のようになっているのだが、情報を単純化し視覚化することで、イマジネーションの源泉になるような豊かなところを失ってしまう危険があるのではないか。(・・・)人は何でも単純化し視覚化しないと気がすまなくなってしまったようだ。” P165

⇒今でも、ツイッターではおかしなほど「図解」を売りにする人間がいる。

  

メモ(自分で考えたこと)

ポリコレと矛盾について

ポリコレが行き過ぎると表現の自由が侵犯されかねない。そして息苦しくなる。

これはもしかすればダブルスタンダードという概念を知らない人間が中心人物にいるのかもしれない。

つまり、AとBが両立し得ない社会を同時に要求しているのである。

  

相対主義について

多元的な価値を包括すること。これはある種の矛盾である。

社会的な制約のもと、すべてが無条件に承認されることは不可能である。

相対主義とは、ある種の思考停止である。

  

“古い書物には、われわれの先輩が到達した人生観、思想、あるいは世界観、そういうものが述べられているし、さまざまな人生を体験、未踏の地に行ったり、あるいは事件に巻き込まれたりしてどうなったかということがすべて書かれている。であれば、それを図書館に積んだままにしておいてひもとくことをせず、私たちがまた自分であらたに一つひとつの体験に取り組んでいくのは、無意味で非効率なことなのではないだろうか。” P48

  

⇒ショーペンハウアーの時代とは違い、今は明らかに何が優れている本なのかがある程度見えてきている。

自分で考えることは大事だが、今の日本の教育レベルでは自分で考えることのできる人間は一握りにすぎない。

であればまずは古典的な作品、文学的な書物から科学まで幅広く読むことが有意義なはずである。

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新・読書日記157(読書日記1497)

    ジョルジュ・バタイユ『ニーチェについて 無神学大全』現代思潮新社(1992)

■株式会社現代思潮新社

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ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』ちくま学芸文庫(1998)

■株式会社筑摩書房

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    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』岩波文庫(2019)

■株式会社岩波書店

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日記

文書を書くとどうしても評論のような文体になってしまう。そういう本ばかり読んでいるから仕方ないにせよ、これはちょっとどうなのかなと、思ってしまう。

自分らしい日記。好きなように、自由に書きつつもこれを読んだ人が何か考えるきっかけになると良いとは思いつつ、そうするとやっぱり評論ぽくなる。

  

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土曜日の夜に悲惨な事件が起きた。この件について自分は黙っているわけにはいかなかった。

自分もあそこを数千回通っているので他人事とは思えないのである。

これは人間のコメットだ。都会の構造がそれを可能にしている。

隕石よりも人間が上から降ってくる確率が高い社会。明らかにおかしいではないか。なんという異常な社会なのだろう。これを疑問に思わない人はさすがに自分とは違う意味で狂っている。

自分はしばらく考えざるをえなかった。今は模倣する人がでないよう、屋上を部分的に封鎖するべきだ。でないとまた犠牲者が出る、自分は新小岩の模倣自殺を見てそう思った。

この件については、また別の日に触れてみようと思う。

  

・・・

メモ

『ニーチェについて 無神学大全』

“私にとって重要なのは、<<交流>>において、愛において、欲望が虚無を対象にしていることを明らかにするということである。欲望が虚無を対象にしていることは、いかなる<<供犠>>においても同じことである。”P71

  

“肉欲の愛においてわれわれは、苦痛の過剰を愛さねばならない。この過剰がないと、われわれは賭けることができなくなるであろう。” P146

  

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『文学と悪』

“エロチスムとは、死を賭するまでの生の讃歌である。” P19

  

メモ

恋愛には本質的に多くの悪徳を含む。しかし実直な人間はこれをウォッカを薄めて作るハイボールのように、限りなく薄めようとする。

『ドリアン・グレイの肖像』

せっかく第二章まで読み終えたのでかるくあらすじをまとめておく。

ドリアンは美貌を持ちながら、精神的にはまだまだ幼い。

ハリーが訪問してきたドリアンに興味を示している。「若さだけが価値なのだよ」といった口調で、ハリーはドリアンを不安にさせる。おそらくドリアンを手なずけようとしている。その目的は定かではない。

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