■株式会社岩波書店
公式HP:https://www.iwanami.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho
■株式会社PHP研究所
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/PHPInstitute_PR?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
■株式会社 みすず書房
公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
日記
メモ
人は悲哀そのものには心は動かされないが、その悲哀が美を含む場合はその限りではない
ありふれた人間・・・時代に縛られた人間のことをいう
グランド・パシオン・・・・・大いなる情熱
ヘンリー「恋はいつも自分自身を欺くことから始まり、他人を欺くことで終わる。それが世間でいう「ロマンス」なのだ」
ヘンリー「時代を動かすのは個性であって、「原理」ではない」
人間は少し前の良いものがあっても、それよりも新しければ多少悪くてもそちらを選ぶ生き物である。
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』
ミニヨン「ただ憧れを知る人のみが、わが悩みを知り給う」
・・・
フランクルを読みながらいろいろと考えた。
ロシアの実験心理学者によって統計的に示された。人生において「快」と「苦」が占める割合は、比較にならないほど多く「苦」が占めるという。
快楽原則についてあまり考えてこなかった自分はいろいろと考えさせられるものであった。
”快感(Lust)原則というものが実際の人生観においてばかりでなく理論においてもいかに不充分なものであるかは、次の日常の体験からも明らかである。すなわちわれわれが或る人間に、なぜ彼がわれわれにとって有意義に思える或ることをしないのかと訊ねたときに、彼はその「理由」として次のように言ったとする。「私にはする気(Lust)がないので……。」するとわれわれは答えを不充分だと感じるにである。事実その答えはもともと答えになっていない。或る行為の意味を認めるにせよ、認めないにせよ、その論証に、する気がある、ない Lust Unlust (快、不快)ということは役に立たないことは明らかなのである。” P42
人生の究極の意味が快の総量で決まる(人生楽しんだものがち)が見落としていることがある。
フランクルは「功利論的倫理学」と呼んでいた。
一日で分かるものではないが、この言葉、カントとベンサムが見事にごたまぜになっていることに着目したい。
功利主義と義務論が半ば強制的に融合させられたかのような印象を受ける。
実際、論理は矛盾する。カントは帰結主義(予想される結果から最善と思われる行為を選択する)を支持しない。それに対して、ベンサムの功利主義は帰結主義を含む。見事な矛盾である。
そして、この矛盾は遠いところでカントのいう「アンチノミー」と、そして肉体と精神が共存している人間という存在の矛盾ともまた似ている。