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新・読書日記162(読書日記1502)

    ミシェル・ウエルベック『ショーペンハウアーとともに』国書刊行会(2019)

■株式会社国書刊行会

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    オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』岩波文庫(2019)

■株式会社岩波書店

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現代思想 2024年9月号 特集=読むことの現在(青土社)

■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

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その他数冊

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日記

人はなんのために、何を読むのかということを昨日断片的にではあるが書いてみた。

世間離れした考えであるかもしれない。実際にそうかもしれない。

「読むことの現在」という、青土社から出ている雑誌を少し読んでみた。

パラパラとページをめくると政治、文学、哲学、科学と、横断的にいろいろな人がいろいろなことを語っていた。

最初の章は『絶望名人カフカの人生論』の著者と『ハンチバック』の著者による対談。

小説がメッセージを乗せてうまくインパクトを世に与えることができれば社会が変わる、そして個人も変わる。

しかし『ハンチバック』の成功まで20年の不毛な時期が続いたという。それでも書き続けた著者に脱帽。この精神力を見習いたい。

   

人はなんのために、何を読むのかという、「問い以前」の問題を自分は見逃していた。

本を読めない人が一定数社会に存在する。それを自分は何も意識できていなかった。

つまり、読むことは知ること、無知を知ること。

「なぜ面倒くさい読書をしなければいけないのか」というテーマについて書かれている章もあった。

「必要な人は読むべきであり、好きな人は勝手に読んでいたらよくて、嫌いな人は読まない。それでいいじゃないか。」という意見については、ミル『自由論』を読んだら答えは自ずと出てくる。それでいいのである。

電子化がどんどん加速し、「本信仰(本は紙であるべきである、という信念)」という言葉まで出てきた。

(紙派の自分でさえも、その言葉は今日にいたるまで知らなかったわけであるが)

書店員、取次、翻訳家、編集者、作家、いろいろな立場がいる人が、いろいろな問題を抱え、いろいろな考えを持っている。これを統合的に、かつ建設的に前へ進めることはそれこそ現場で働く人たちにしか分からないと自分には思えた。

本の問題というのも、本だけに、本当にいろいろあるのだなと思わされたが、これは時代の流れに逆らえるわけもなく、与えられた環境で自分の筋を貫く他ないだろう。

・・・

   

『ショーペンハウアーとともに』

精神的に最も高尚な人類は、もっとも苦悩も豊かである、といったことが書かれていた。

これこそ、人間という存在の矛盾そのものを端的に表す言葉だ。これ以上にない。

世の中の「幸福論」の99%は苦悩を可能な限り軽減しようと努める理論に終始するように思われる。

だが冷静に考えてみると、それは可能な限り動物に近づくことを意味する。

裏を返すと、それは動物よりも劣った存在であると自ら認めるようなものである。

従って、論理上、人間である以上は苦悩を受け入れることが普通なのであり、むしろそれを放棄することによって人間性を捨てることでもある。

以上が物質主義における人間という存在のパラドックスである。

なんとなく思っていたことを文章化してみるとやはりスッキリ整理されてくる。

この、今書いたことを「自由ー責任」の問題につなげてみるとまた新しい発見があるかもしれない。

小坂井氏の『責任という虚構』が記憶に新しい。

自由意志を否定する場合、責任概念は消滅する。責任という虚構は自由の存在を認めることによって生まれる。

自由という存在によって責任という虚構が隠される。

そんな内容だったと記憶している。

  

自由意志が仮にあるとするならば。

幸福論的な考えは、数学でいう極限のように、自由意志を動物的意志へと漸近させる行為と言える。

幸福論は逆説的に、自由を捨てる行為と言えなくはないだろうか。

そんなことを考えてみるとこれもなかなか深そうかもしれない。今日はいったんストップだ。

  

メモ

ヴォルテール「私たちは、生を受けたときと同様に、愚かで悪意に満ちたままの世界を去るだろう」

・・・

 

『ドリアン・グレイの肖像』

200ページまで読み進めた。ドストエフスキー『悪霊 上』が400項で止まっている。まいったが、今は明らかに『ドリアン・グレイの肖像』のほうが面白い。いよいよ物語が大きく展開し始めた。

  

メモ

“楽天主義の根本にあるのはまったくの恐怖心なんだ。ぼくたちが自分のことを寛大だと思うのは、自分の利益になりそうな美徳を隣人にも持っていてほしいからなんだ。余分に金を借り出したいために銀行家にお世辞を言い、自分の財布を見逃してくれるようにという願いから追いはぎの長所をあれこれ言いたてるんだよ。ぼくが言ったことはみんな本気なのさ。ぼくは楽天主義というやつに対してこのうえもない軽蔑を感じているんだ。生活が駄目になるということが、成長を妨げられている生活のほかに駄目なものはないのじゃないかな。ある性質を台なしにしたければ、ただそれを改善しさえすればいい。” P157

  

“「善良であるということは自分自身と調和しているということなんだ。」(・・・)自分自身の生活ーーーそれこそが大事なものなんだよ。隣人の生活について言うなら、もしもかまし屋とか清教徒にでもなりたければ、隣人の生活について道徳的見解をいろいろ誇示してやればいいんだけど、そんなのは本当は知ったことじゃないんだよ。” P165

  

“「現代の道徳は自分の生きている時代の規準を受け入れることにあるんだ。ぼくは思うんだが、教養ある人間が自分の時代の規準を受け入れるなどということは、一種のはなはだしい不道徳ではないだろうか」” P164-165

  

“本当に魅惑的な人間は二種類しかいないのだーーーつまり、何もかも完全に知り尽くしている人間と、完全に何も知らない人間だよ。” P178

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