閉じる

新・読書日記173(読書日記1513)

    ポール ド・マン『美学イデオロギー (平凡社ライブラリー)』平凡社(2013)

■株式会社平凡社

公式HP:https://www.heibonsha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/heibonshatoday?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

    宮﨑裕助『読むことのエチカ: ジャック・デリダとポール・ド・マン』青土社(2024)

■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/seidosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日記

言葉というものを考えれば考えるほど、実はめちゃくちゃなものなのではないかという懐疑が生じる。

下品な言葉ですら、字義的に不明なこともままある。

「ふざけんな」

これは字義的に受け取れば、相手がふざけていることを示す。

しかし相手は「ふざけていない」と真面目に答えることができるし、実際にふざけていない可能性もある。

  

「ふざける」の定義を客観的に決めることは馬鹿げているし、決まるように思えない。

こういうことを詰めていくと、結局は言葉というものには曖昧性、不確定性、不確実性というものが必然的に帯びてくることが分かるようになってくる。

アローの不可能性の定理を彷彿とさせる。このブログで百回くらい書いていて、くどいが、位置を予測できない量子の不確定性も彷彿とさせる。

科学と人文が深い場所で類似している。こういうことを自分は日々感じる。

  

今日は『美学イデオロギー』を手に取り、アイロニー(皮肉=遠回しの批判、別の表現をすることで批判とはすぐには受け取れないような仕方で批判することの定義が歴史的に不毛なままになっているという話を読んだ。

  

これと似たような状況を自分は実際に経験した。

自分の言動が、違った意味として受け取られてしまい、人間関係が破壊的な方向に向かった。

どういうわけか、こういうのはやはり女性とのやりとりで多い。今回もそうだった。

  

・・・

   

究極的には、こういう話を読んだり経験すると、心の状態、意識、情動というものを言語に表すということは絶対に不可能であるということを思い知らされる。

どんな言葉でも字義的に解釈される場合とそうでない意味として解釈される場合がある。

さきほどの「ふざけんな」もそうである。

「ふざけんな」という言明は、字義的な意味として解釈するのはナンセンスで、この言明を行うことで自分は「怒っている」ということを相手に知らせるという役割を果たしているように思える。

つまり「行為遂行的」なもの、「パフォーマティブ」となる。こういうことが仕事などの実務でも起こるのである。実際に起きてしまった。

  

・・・

  

不可能なものを可能にするような試みは無意味だが、この言葉の二面性(ダブル・バインド)によって悪い方向に行ってしまうことをなんとか防げないものだろうか。

そういうことを考えると、やはり小説などを読んで個人個人が解釈の幅を広げるような努力をしないといけない、という陳腐な考えに辿り着いてしまう。

そう思えてならない一日であった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free