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画像引用元:版元ドットコム
URL:https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784061983403
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日記
『対談:人間と文学』
メモ(以下すべて三島由紀夫の言葉)
報道班にいた丹羽文雄の『海戦』に対する非難について語る三島
⇒丹羽は報道班でただひたすら文章を書いていた。そんな丹羽の話を読んだ人間から「なぜ弾を運ばないんだ」といった非難があった。
“総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化していくものですね。大砲を撃つ人は大砲、報道班は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣係のために利用される。そういう近代的な総力戦では丹羽は正しい任務を果たしている、だけど文学というのもは絶対そういう機能になり得ないものだということを信じたい。” P203
⇒実際、丹羽はただ任務(報道班としての)を遂行しただけで何の問題もない
この非難は「極限状態で文学(者)はどうあるべきか」を問うものであった。
“そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。” P203
“つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることはしらずしらずの機能化にからめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動をやってみたらどうだ。” P205
三島は文学が機能化することを「中間小説化」と表現している。つまり「中間小説」は三島に言わせれば「機能的な小説」ということになる。
三島は芸術至上主義が機能化されることへの回避を語った。(P205)
深い問いかけに思えた。極限状態と文学というと、すぐにサルトルを思い浮かべるが、ここでは三島はサルトルについては何も言及されなかった。
この本は三島由紀夫の文学観が多角的に論じられるので非常に勉強になった。
他のページでは教養主義が権力主義と一体であることを語った。
いわゆるトーマス・マンのような教養小説は、三島由紀夫からすればそういうように見えるようである。
何かを教えたい、教育したい、そういう欲求が教養主義には隠れていて、常に権力を意識しているのだという。
確かにそれは間違いではない。間違いではないが、反論の余地もある。
教養のない世界で全体主義が生まれたのではないか。全体主義の成立条件として、教養の欠如は必要条件なのではないか。いろいろと考えさせられた。
深すぎて理解できなかった箇所が多々あったように思う。
・・・
『法と感情の哲学』
「嫌悪感」というものがタイムリーに政治的なトピックとなっている。
夏場の悪臭問題はネットニュースのトレンドとなった。
(マーサ・ヌスバウムの文章)
“私たちは行為に対して嫌悪感を抱くのか、それとも人に対して嫌悪感を抱くのか。罪だけでなく罪人も憎むことは、そもそも許されるだろうか。” P11
“ある種の感情が、裁判官や陪審員を間違った判断や道徳的な誤りへと導くことはあるだろうか。” P15
ヌスバウム「嫌悪感は法の語彙から排除されるべきである」
トランスジェンダーの国家公務員が女性トイレを一部利用の制限をかけられたことに対して国を訴えた。
結果的に最高裁にまでもつれこみ、トランスジェンダー側が勝訴した。
嫌悪感はあらゆる政治的なトラブルのなかで中心的な位置を占めているように自分は感じる。悪臭問題も嫌悪感の問題でもある。
進化論的には嫌悪感に伴う吐き気は、胃の中を空にして逃走しやすいように仕向ける機能があるということもあるらしい。
本書にも書いてあったが、法律の問題を徹底的に解剖するには進化論をはじめ、心理学、哲学、科学などあらゆる研究の素材が要される。
読んでいて複雑すぎる問題にどう対処すればいいのか、答えが見えないように思えた。
しかし、自分は答えのない問いを考えるのが好きなので、読み応えが十分あり面白い。
『もっと問いかける法哲学』によれば、ひとつの解決策として、経済学者アマルティア・センの「ケイパビリティ=生き方の幅」の平等という概念が存在する。
トイレの問題では、「生き方の幅」の平等を考えた時、職員に対して貶価(=社会的に強い立場にいる者がそうでないものを不当に扱うこと、劣位化する表現行為を行うこと)が認められるということであった。
嫌悪感、差別の問題を考えるときケイパビリティを頭に据える。非常に参考になった。
つづく