■株式会社早川書房
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日記
法哲学の本を読み、なぜダフ屋を規制しないのか?という問いが想像以上に深いことを知り、このトピックについて考えてみようと思った。
転売ヤーというと社会的なイメージが悪いのが現状ではないだろうか。
しかし、実際にバイヤーとされる職種に就いている人間、仲卸業者の人間は、社会的な意義が異なれど、やっていることはほぼほぼ同じではないか。
ちょっとだけ調べてみたが、転売ヤーは価格を吊り上げるが、後者は引き下げるといったことが書かれていた。
でも行為だけを見れば、つまりミクロだけを見れば同じということで、なぜ両者は社会的な印象が違うのか、そういうところが疑問に思えたのでマイケル・サンデルの本を読むことにした。
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人間の多様な営みのなか、それもビジネスになるのか?という事象がアメリカ含め海外には横行していることはわかった。
いまや市場の原理は一般的なビジネスの領域を超えて、あらゆる私的な範囲にまで及んでいる。
日本も退職代行サービスなどが増えてきたが、この本には議会の公聴会に出席したいロビイストのために「行列代行」を行う業者のことなど、いろいろと書かれている。
この「行列代行」がダフ屋と密接に関係している。
行列代行は、時間を有り余るほど持っている人間にとって優位であり、ダフ屋はこの人間たちが存在する限り成立し続ける。
時間がないがお金がある人間が(この例でいうとロビイスト)、この行列代行業者に雇われた人間(本書ではホームレスなど、と書かれている)が受け取った「席に座る権利」に対して対価を支払う。
需要と供給が見事に一致する。
ここまでは誰でも分かるポイントなどで次に進めたい。
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ここで話をダフ屋とアイドルのコンサートに変えたい。
ダフ屋を規制する根拠として「見たい人たちが観られない」というものが挙げられる。
しかし「見たい人」とはいったい誰のことを指すのか?という問いがあがる。
ここで二種類の人間が区別される。
行列に並んでまでも(時間をささげてでも)観たい人、いくらお金を払っても観たい人、と分かれる。
しかし、どれだけ時間を捧げて行列に並んでも観たい人、どれだけお金を積んでも観たい人、どちらが本当に観たい人なのか、決める基準が全くないというのは事実だ。
例えば、最も価格が高い席が売れ残るということはよくあると思われる。
「そこしか空いていないなら仕方ない、そこにしよう」という人間がチケットを買う。
すると、相対的にその人が最も「観たい人」なのかというと、そんなことはないように見える。
行列の例も同様だと思われる。
つまり、「本当にコンサートだけを楽しみたい人にだけ、チケットを販売します」は矛盾だらけの詭弁ということになる。
・・・
このことを考えると、何をもって「公共性」といえるのか、そのひとつの条件が見えてきた。
コンサートが公共施設で「無料」で見られるときを考えることによって浮かび上がる。
そこでダフ屋が来ると時間がある人間、またはいくらでもお金を払える人間、つまり支払い能力のある人間の二種類の人間が相対的に「チケットを得やすい」状況が発生する。
ダフ屋の存在を許すかぎり、この二種類の人間たちが有利になってしまうようなチケットの販売方法は公共性を持てないと自分には思える。
自分は法律に詳しくないので日本のこのようなケースについて分からないが、公的な催しの場合はおそらくダフ屋の行為を禁止していると思われる。
そうでない事例もあるかもしれないが、それはそれでまた明日以降、地道に調べたり読んでいきたい。
いま考えているのは何をもって「公共性」と言えるのかどうかである。
それはやはり、抽象的にはなるが、万人が等しい条件のもと、公正な分配が成立するようなケースに値するもの、かつそれが何らかの「効用」を需要側が享受できる場合、ということなのだろう。
つづく
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